浮遊感のあとに身体を襲ったのは、途方もないほどの墜落感。 なぜか冴えわたっている頭で考えた。 ああ、私は死ぬんだ。 |
Und der Engel ging hinunter.
第二話 |
二人は唖然としていた。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだろう。実に間抜け面である。 殺し屋集団ガンマ団総帥マジック、その弟で泣く子も黙る特戦部隊隊長のハーレム。 ガンマ団のツートップである彼らは、現在珍しく真面目に作戦会議中だった。最近動きの怪しい国の情報を挟んでの会議だ。いつもならば同席しているマジックの腹心も今は席を外している。 つまり総帥室には彼ら兄弟のほかには誰もいるはずがなく、そもそも厳重に警備されているこの部屋に侵入出来る人間がいるはずもない。それどころか、虫一匹、蟻一匹の侵入すら不可能なはずだった。 それは決して驕りではなく事実だったのである。 が、その事実はいとも簡単に過去形に変わっていた。 ドサリ、と音がしたのだ。 大方積み重なっていた書類が倒れたのだろう、拾うのが億劫だ、くらいに何気なく視線をそちらに動かしたマジックは、次の瞬間には完全停止していた。 そんな兄の様子を訝しがったハーレムも、マジックの視線を追う。そして彼も固まった。 実際には一分も経っていないのだが、ゆうに一時間は固まっていたような気がする。喘ぐように呼吸を繰り返し、二人は顔を見合わせる。 おかしい。 ありえない。 しかも。 「―――女?」 二人の視線の先にいたのは、少女だった。気を失っているようで、力なくその場に横たわっている。 普通ならば侵入者にはその場で制裁を加える。しかもそれがよりにもよって総帥室であるならば尚更、生きて出られるどころか元の形を留めていられることすらあり得ないものと思うべきである。 無論、戦闘好きのハーレムも、温厚に見えるマジックであれ変わらない。 変わらないはずだったが、この展開にはどうしても思考能力が付いていってくれなかった。 これまで侵入者がいなかったわけではない。勇気ある愚か者がこのガンマ団への侵入を図ったことが過去幾度もある。しかし彼らが総帥室に辿り着くことはあり得なかったし、単身ということもなかった。 こんな例はないのだ。 厳重警備の総帥室にまったく気配なく現れた例など。 しかしこれは現実である。古典的な方法ではあるが、二人とも自分の頬を抓ってしっかり痛みを感じたのだ。夢ではない。 「・・・おい、ここの警備はどうなってんだ」 「私に聞くな。外にはチョコレートロマンスがいるはずだぞ」 「寝てんじゃねぇのか?」 「そんなわけがないだろう。しかもドアは開かなかった」 「じゃぁどうやって入ってきたっつーんだよ?」 「知るか」 「しかも気絶してるしよ」 当然ながら、軽口をたたきながらも油断はしない。気絶したふり、ということも考えられるからだ。 とは云うものの、こんなところでそんな真似は単なる自殺行為でしかない。遠距離であれ近距離であれ、同じ室内にいれば彼らにとって標的を始末することなど容易いのだ。 敵であればそんなことがわからないはずはない。つまり気絶したふりというのはあり得ない。 一応の用心はしつつ、ハーレムは席を立つ。マジックの手元にはいつでも外の部下を呼び出せる端末がある。必要ないかもしれないが、総帥としての体裁はあるので何かあれば即座にそれを使うつもりだった。 うつ伏せに横たわっている少女の年齢は十七・八といったところだろうか。白いシャツに紺のベスト、紺のスカートに黒いハイソックスという格好で、持ち物は大きめのバッグのみ。顔には長い栗色の髪がかかっているためよく確認できないが、整っているのは間違いなさそうだ。 ハーレムはおもむろに足で胴のあたりを転がし体勢を仰向きに変える。少々乱暴ではあるが、この際仕方がない。すると、さらりと流れた髪は床に落ち、その顔が露わになる。思ったとおり整っている。少々顔色は悪いが、少なくとも外傷はない。 少女を見下ろしたままどうしたものかと考えていると、興味をそそられたのかマジックも近づいてきた。 「ほぅ。なかなかきれいな顔じゃないか」 「襲うなよ」 「子供に欲情するほど困っていない」 「どーだか?」 「何?」 「ッ・・・・・・」 「!!」 小さな喧嘩が勃発しようとしたとき、彼らの足もとの少女が小さく身動ぎした。 すかさずハーレムは意識を少女に集中させる。彼ならば何かあれば一瞬でこんな風が吹けば折れそうな少女を始末できる。 だからこそこの距離まで接近して観察をしていたわけだが、どうにも違和感が拭えずにいた。 この少女からは危機を感じられないのだ。戦場に長く身を置いている彼には、相手の持つ力を本能的に感じることが出来る。強いか強くないか、危険か危険でないか。彼の本能が素早くそれを察知するのだ。 しかし、この少女にはまるで何も感じない。気を失っているからかと思ったが、何か違う。 しばらくそのまま少女を観察していると、やがて苦しげに眼を開けた。 少しぼんやりと眼だけであたりを見渡し、そしてすぐ近くにいたマジックとハーレムを見た。それでもしばらくは理解できなかったのだろう。ぼーっと二人を見上げたままぱちぱちと瞬きを繰り返した。 それから何とも不思議そうに首を捻ったのである。口には出さないが、何故?とでも云うようだった。 そんな少女を半ば呆れたように眺め、ハーレムは口を開いた。 「おい、てめぇ何者だ?」 「・・・・・・・・・」 「なんか云いやがれ」 「・・・・・・?」 少女は未だにぼーっとしていて、心ここにあらずといった感じだった。眼は開けているが、寝ているように意識が覚醒していないのだろう。 もともと気が長くないハーレムがイライラして声を荒げそうになったとき、それを抑えてマジックが少女の横に膝をついた。 「気分はどうだい?」 「・・・・・・・・・」 「君は気を失っていたんだよ」 「・・・・・・・・・」 聞いているのかどうかもわからなかったが、とりあえず声をかける。案の定、少女はまだ理解できていないらしく、そのまま動かない。 が。 「!!!!」 「うおッツ!!」 急に身体を起こし、バッとすごい勢いであたりを見回したあと自分の身体をあちこち触っていた。 突然の覚醒にマジックもハーレムも驚きを隠せない。一体どうしたというのだろうか。 不審に思って問おうとしたが、驚愕に見開かれた眼で逆に見つめられたマジックは思わず口を閉じた。 代わりにハーレムが云った。 「おい。何してる?」 「・・・・・・!!!」 「・・・は?」 「!!、!!・・・・・・ッ!?」 様子がおかしかった。少女は確かに何かを云おうと口を開いたのだ。しかし、ぱくぱくとしているだけで一向に声は聞こえない。 怪訝に眉を寄せる二人と同じように、少女自身も自分の異変に気付いたのだろう。驚いたように手を喉に持っていき、必死に口を開く。が、やはり声は出ない。 「・・・声が、出ないのかな・・・?」 まさかと思いながらマジックが尋ねれば、茫然自失の呈で少女は力なく頷いた。自分でも信じられないのだろう。見ればその表情は今にも泣き出しそうだった。 思わず兄弟は顔を見合わせる。これはまさしく異常事態だ。 あり得ない侵入者は、声を失っていた。 二人はこの少女が敵国の人間である可能性を除外していた。敵国はガンマ団の性格を嫌というほど知り尽くしている。 女子供であれ、敵と判断した瞬間、何の迷いもなく殺す。 情に流されることが皆無に等しいことを知っているのだ。つまり、今更こんな少女を使ってスパイ行為を行うことはあり得ない。 そしてこの少女が演技をしているわけでもないことを二人は直感していた。 どうするか逡巡したが、とりあえず状況を整理する必要がある。 呆然としている少女に手を貸し、マジックは先ほどまで作戦会議に使っていたソファまで少女を連れていった。もちろん書類は片付ける。声が出ないのではどうにもならないが、書くくらいは出来るだろうと適当に紙とペンを用意した。 その間にハーレムは内線で部下に飲み物を持ってくるよう指示し、用意されたものを盆ごと部屋の外で受け取った。 いつもならば絶対にあり得ないハーレムの行動にチョコレートロマンスは驚きを隠せない様子だったが、重要な会議中なので自分たちでも中に入れるわけにはいかないのだろうと勝手に納得していた。 実際はどう足掻いても不審人物である少女を人の目に晒すわけにはいかなかったからなのだが、そんなことは今の彼らには関係のないことだった。 さすがに用意された紅茶をカップに注いでやることまではしなかったが、それは代わりにマジックがやった。 香りの良いそれを少女の目の前に置き、自分たちは少女の前に腰を降ろす。正面に座ったのでは少女を怯えさせるかもしれないので若干斜めに位置をとった。 大人しく座る少女は顔面蒼白で微かに震えていた。無理もないだろう。理由は知らないが気絶して、目を覚ましたら声が出なくなっていた。これで冷静にいられるのはよほどの大物か馬鹿に違いない。 少女を刺激しないよう慎重に、ガンマ団総帥としては破格の行動ではあるが、出来る限りやんわりと話を切り出した。 「こんな状況で申し訳ないけど、話を聞いてもいいかな?」 少女は頷いた。ふらりと視線を彷徨わせ、テーブルに置かれた紙とペンに手を伸ばす。満足そうに微笑んだマジックは早速話を進めた。 「君の名前は?」 『』 「くんだね。年齢は?」 『17』 と名乗った少女は、震える手で、しかししっかりと質問に答えていく。まだ顔は青いままだが、少しずつ状況が理解できたのだろう。 しかし、次の質問には戸惑いを隠せないようだった。 「君はどうやってここに来たのかな?」 はしばらくペンを持ったまま動けずにいた。気を失う直前までのことならば覚えている。けれどそれを話したところで意味があるのかわからない。 悩んだ挙句、一言だけペンを走らせた。 『わかりません』 当然これに眉を吊り上げたのはハーレムだ。わからないはずがない。先ほどから地味にイライラを募らせていたハーレムの我慢はついに限界を迎え、次の瞬間には拳をテーブルに叩きつけていた。 ビクッと肩を竦めたなど気にも留めず、低く云う。 「おい。いい加減にしろよ」 「ハーレム」 「兄貴は黙ってろ。あのな、わからねぇはずがねーだろうが。てめぇの行動だろ」 泣く子も黙る特戦部隊の、彼は隊長なのだ。どう見ても戦闘員ではないが怯えないはずがない。突然の剣幕に胸を大きく上下させ、顔を紙のように白くして震えている。 大人げない弟の行動に呆れつつ、マジックはどうしたものかと考えた。このままでは本格的に彼の弟はを問いただすだろう。どうにかして抑えなければならないだろうが、その手が見つからない。が、この話は絶対に聞きださなければならないことだった。 すると、やはり怯えたままだったが、少女はそろそろとペンを走らせた。 『本当にわからないんです。ごめんなさい。でも、気を失う前のことは覚えています。信じていただけないかもしれませんが』 兄弟は素早く視線を見交わした。とりあえず話を聞かなければ、の処遇も考えられない。小さく頷くと、マジックはにこりと微笑んだ。 「いいよ。話してみなさい」 頷いたは、戸惑いながらもペンを走らせた。 『私は高校生です。今日・・・もう、今日じゃないのかもしれないけど、とにかく学校の帰り、友達と用事があって寄り道をしたんです。普通に階段を上ってお店に入ろうとしたら、途中で足を滑らせて。多分、階段から落ちたんだと思います。友達が私を呼ぶのが見えました。でもそこで意識がなくなって。死んだんだと思いました。あんな高さから落ちたら、普通は死にます。だけど、気付いたら、ここにいました』 黙ってのペンが止まるのを待っていた二人だったが、到底信じられる話ではない。要約すれば、階段から落ちた次の瞬間にここにいたということだ。そんな話があるはずがない。どこのファンタジー小説かと思う。 しかし、が嘘をついているようにも思えない。だがあまりに現実離れした話しすぎるのだ。信じろという方が無理がある。 もそれがわかっているのだろう。泣きそうにペンを握りながら俯いている。 何より、一番今の状況が信じられないのはなのだ。 なんでもない毎日を過ごしていた。これからもそうなのだと思っていた。なのに、ある日突然階段から足を滑らせ、平凡な日々に別れを告げざるを得なかった。しかし死んだと思ったのに、は目を覚ました。一瞬夢か、ここがあの世なのかと思った。が、目の前にいる人は天使というには無理があり、死神にも見えない。 どうしたらいいのか途方に暮れてしまっても仕方がないだろう。 『すみません』 小さく書いた謝罪の言葉は、どうしようもなく切なかった。 一体自分はどうなってしまったのだろう。ここはどこだろう。これからどうなるのだろう。 不安が一気にを襲った。先ほどまで我慢していた涙が、堰を切ったように溢れ出す。しまったと思った時にはもう手遅れで、次々に頬を伝って紙を濡らす。 怖い、寂しい、哀しい。 声が出たならば大声で泣いていただろう。しかし今のは声が出ない。押し殺した嗚咽を漏らすしかなかった。 その様子を見ていたマジックとハーレムは、こちらこそ途方に暮れたように顔を見合わせた。 の話が嘘でないのはなんとなくわかる。が、どうしたらいいのか考えあぐねていた。全面的に信じるのは無理と云うものだが、信じないとも云い切れない。 顔を覆って泣き出したを見、気の毒になったマジックは自分のスカーフを握らせる。 「哀しいのはわかるけど、今はこれからのことを話そう。ね?」 そしてそっとの頭に手をぽんと置く。 未だに泣きやんではいなかったが、マジックの気遣いに少し落ち着きを取り戻したはしゃっくり上げながら頷いた。 「よし。じゃあ、まずそうだなぁ。くんはここがどこだかわかってる?」 横に首を振る。 「私たちのことを知って――るはずなさそうだけど――るかな?」 横に首を振る。 いよいよもって不自然だった。この世界でガンマ団を知らない人など、生まれたての赤ん坊位のものなのだ。それを、この年になるまで知らないとなると、異常だった。 「ええと…くん。君は今までどこに住んでいたのかな?」 その質問に、は首を傾げ大きな瞳を瞬いた。 『東京です。ここは日本ではないんですか?』 日本ならば知っている。ガンマ団のおひざ元とも云える国である。 その国から来た、少女。 それなのに、自分たちを知らないという、少女。 これはもしかして相当ややこしいことになるのでは、と懸念した兄弟二人は、仲良く天井を仰いだのである。 -------------------- 大変だー(棒読み) |