怖かった。 なぜ平然としているのかわからなかった。 恐ろしくて、堪らなかった。 |
Und der Engel ging hinunter.
第四話 |
いち早くの異変に気付いたのはハーレムだった。 一瞬怪訝に思ったが、ややあって理解した。その瞬間思わず叫んでいた。 「回線を切れッッ!!!!」 はっとしたマジックは素早かった。通信からの声も聞かずに迷わず電源を落とす。そして、そこで漸く彼も気付いたのだ。 何も映さなくなったモニターから今尚目を離せず、は最初よりも激しく動揺し、それこそ紙のように顔面を白くしていた。口元に手を当て、大きく目を見開いてガタガタと震えた。 しまった、と思った。浅はか過ぎた。後悔してももはや遅いが、マジックは何も考えず画像を出させた自分を厳しく叱咤した。 兄弟の後に事態を理解したのはGとマーカーだった。ロッドはわけがわからないというように不思議そうな顔をしているが、それをはっきりと口にしないだけの分別はあったらしい。何も云わずに大人しくしている。 は勘違いしていた。 いくら優しくていい人たちでも、ここはがいた世界とは違う。自分の常識はきっと通用しない。自分の当たり前はここでの当たり前ではない。 わかっているつもりだった。 でも、わかっているつもりでいただけだった。 さっきの画像を見ても、彼らは顔色一つ変えず話していた。ここではあれは日常なのだ。人が死ぬことが、殺すことが。 総帥、とマジックは呼ばれていた。恐らく彼は、この集団のトップだろう。そして、ここが彼の部屋であることは見当がつく。さらに、ここにこうもあっさり入ってこられるということは、ここにいる人たちは、この集団の中心、もしくは中心に近い人たちということになる。 つまり、今のは。 あの画像を作り出したのは。 ―――この人たち。 急激には恐ろしくなった。優しいと思って、いい人だと思った人たちが、とても恐ろしい人たちに思えた。 怖い。 怖い。 怖い。 「・・・くん」 呼ばれ、びくりと肩を竦めた。 ぎこちなくマジックを見つめる。一体今の自分の顔はどうなっているのだろう。知りようもなかったが、マジックは哀しそうにを見ていた。 その顔を見て、は申し訳ないような、急に罪悪感に苛まれた。しかし、そんなことよりも今は恐怖心のほうが勝っていた。 恐怖で思うように身体が思うように動かなかったが、ゆっくりと他の人を見回す。 誰も彼も、気の毒そうにを見ていた。 そして、唐突に理解した。 やはり、ここは元の世界とは違う。 「おい・・・、」 気遣うように伸ばされたハーレムの手が恐ろしくて、殺される、と思った。ぎゅっと目をつむり、咄嗟に腕を顔の前に動かして盾を作った。 それを見たハーレムは、駄目だ、と理解した。 きっとはこの世界に馴染まない。そう直感した。マジックや他も同じだったのだろう。泣き出しそうに怯えるを、哀しそうに見つめた。 そして、小さく息をつき、伸ばしかけていた手を引っ込めそのまま内線に繋ぐ。 「おい。いるか」 『はい。何か?』 「部屋は用意出来てるな?客を案内してやれ」 『?お客様、ですか?』 「そうだ。さっさとしろ」 いつもならばこんなハーレムの態度に一言二言物申すマジックも、今は何も云わなかった。云えなかった。 こんなとき、彼は弟を羨ましく思う。決して口にはしないが、ハーレムのこういった優しさが、羨ましかった。きっと、自分では出来ないことだから。 内線が切れて少しの間も置かず、立てかけられていたドアをずらしてティラミスが部屋に入ってきた。いつの間にか存在している少女に驚いていたが、おくびにも出さず頭を下げた。 ここからはマジックの仕事である。 「彼女だ。VIP扱いで頼むぞ」 「は・・・・・・」 「くれぐれも失礼のないように」 「はっ」 最敬礼し、を促す。こちらへ、と差し出された手を見つめ、けれど決してその手を取ろうとはしなかった。震えたまま立ち上がり、チョコレートロマンスの後に続く。 部屋を出るまで、ついに彼女は後ろを振り向かなかった。 今は一刻も早く、この場から立ち去りたかった。 ***** 残された男たちの空気は重かった。 彼女にあの画像を見せてしまったことに、わけもない罪悪感があった。 しかし空気の読めないイタリア人は、けろりと云ったのだ。 「なぁ、ちゃん、なんであんな怯えてたんだ?」 死ね、と余程云ってやろうかと誰もが思った。が、無駄を悟ってため息を零すだけに留める。親切にも説明してやったのは、意外や意外、ハーレムだった。 「あいつがいたとこじゃこんなもんは縁遠かったんだろうよ」 ふぅん、と呟くロッドにはまだ理解できないようで、それでもしきりに首を捻っていた。当たり前になるとは恐ろしいことである。我が部下ながら、と思ったが、ハーレムは何も云わなかった。 「・・・困ったね・・・・・・」 「てめぇのせいだろうが」 「わかってる。私が馬鹿だった」 「・・・嫌に素直じゃねーか」 「事実なんだ。仕方がない」 吐き出された息は重々しい。滅多にないほど後悔している証拠だった。 そんな兄を眺めながら、弟も苦々しい気持ちだった。山積みだった問題にさらに問題が積み重ねられてしまった。しかも、この問題が一番重要だ。 きっと彼女は自分たちを人殺しだと思っただろう。手を伸ばした時のあの反応がそれを物語っている。 失敗した、と心から自分を呪った。 ***** 部屋までどうやって歩いたか彼女は覚えていない。気付いたらもう部屋にいて備え付けの椅子に座りこんでいた。 まるで高級ホテルのスウィートルームのような内装で、置いてあるものはどれも高そうなものだし、埃一つ落ちていないとても綺麗な広い部屋だった。 風呂トイレキッチン、生活に必要なものすべてが揃っていると先ほどの人が云っていた気がする。頭がうまく働いていなかったのでよく覚えていないが、時間になれば食事も運ばれてくるし、鍵をかければ外からは絶対に開けられないとも云っていたと思う。 慌ててドアに近付けばすでに鍵は閉まっている。無意識のうちに閉めていたのだろう。どれだけ自分がぼーっとしていたのか見当もつかない。 そして再び椅子に腰を降ろす。 途端、ぼろっと涙が零れた。 次々に頬を滑り落ち、膝の上で握りしめた拳を濡らしていく。 怖かった。 どうしようもなかった。 あの手はきっと人を殺す。 伸ばされた手でそのまま殺されると思った。 あの人たちがいい人なのはわかっていたのに、この恐怖心だけは拭えなかった。 酷いことをした。 傷付いた顔をしていた。 自分がそうさせた。 あんなにいい人たちを、傷付けてしまった。 なのに、まだ怖い。 モニターの画像を思い出すと震えが止まらない。 瓦礫に埋もれた人。赤。血。死体。 遠い国での話、自分には縁のない話だと思っていたことが、目の前にあった。 いつもテレビ越しに見ていた事件が、身近なところにあった。 声にならない嗚咽を漏らし、は泣いた。 それから三日間、は部屋から一歩も出なかった。内線を使えば外にいるであろうマジックの部下に話が出来るのは知っていたが、とてもそうする気にはなれなかった。 食事は朝昼晩とキッチンの端の小さな昇降機から運ばれてきた。はほんの少しだけそれに手を付けると、ごちそうさまでした、とメモを添えて元の場所に戻した。料理はどれもとても美味しかったが、まともに食べるだけの食欲がわかなかったのだ。 シャワーとトイレだけはお言葉に甘えて使っていたが、そのほかは極力触れないようにした。 一日のほとんどを椅子かベッドの上で過ごした。 まるで軟禁されているようだった。外に出ないのは自分の意思だが、今のにはそれすら気付かない。 心が壊れていく気がした。 もう何年もここにいるような錯覚を起こし、もしかしたら自分はこのままここで死ぬのではないかとも思った。 壁に背を預け、ベッドの上で膝を抱えながら自嘲した。 平凡な人生がいつの間にやら手の届かないほど遠くに行ってしまっている。普通とは一体なんだったのだろう。そんなことも思い出せない。 ずるずると横に倒れ、きつく目を閉じた。眼に熱が集まってきている。けれど、泣きたくなかった。 「――――――」 どれほどそうしていたのか、ふと気付くとの身体はふわふわと宙に浮いていた。驚いたが、今は怖くなかった。 視線を彷徨わせれば、白い部屋にいるようだった。病院の雰囲気によく似ている。さらに辺りを見回すと、両親と弟、それに友人がいた。 どうしたの、と声をかけようとするが、やはり声が出ない。 おかしいと思った瞬間、ベッドに横たわっているのが自分であることに気付いた。 声にならない声で叫ぶ。 違う。 私はここにいる。 お父さん、お母さん、たいち。みーちゃん、ひかり、みやこ、だいすけ、りょう。 ねぇ、私はここにいるのよ。 それは誰? 私じゃないわ! お願い、気付いて! どんなに声を張り上げようとしても、音にはなってくれない。 眼下でみんなが泣いていた。 どうして。 どうして。 どうして死んでしまったの。 どうして私たちを置いていってしまったの。 そんな声が聞こえる。 違う! 私はここにいる! どうして気付いてくれないの!? 私はここにいるのに!! 気が狂いそうだった。誰も気付いてくれない。自分はここにいるのに。どうして。なんで? その時、声が聞こえた。 。 確かに自分を呼ぶ声だった。けれど、彼女の愛した人たちではない。彼らは今も、あの亡骸の傍で泣いている。 この声は、ずっと遠くから聞こえてくる。 とても優しい声だった。 その声の主を探そうとした瞬間、身体が落ちていくのがわかった。あのときと同じだ。階段から落ちたときと、同じ。 そして、わかった。 自分は死んだ。 死んで、あちらの世界に渡ったのだ。 この世界に、自分の居場所はなくなった。 眼下の人たちは泣いている。 いつの間にかも泣いていた。そして、笑っていた。 さようなら。 声にならない声で、呟いた。 これが永遠の別れになると、にはわかっていた。 さようなら。 さようなら、大好きな人たち。 -------------- 永訣 |