もう、帰れない。






Und der Engel ging hinunter.
第五話





様が食事を取られていないようです」

ティラミスのセリフに耳を奪われたのは仕方のないことだった。
あれから三日経った。が部屋から一歩も出ていないことはすでに知っていたが、今度の話題は初耳だったのだ。
適当に目をやっていた書類を投げ出し、ハーレムは部下を問いただす。

「どういうことだ?」

困惑したように肩を竦め、彼は答える。

「どうもこうも。食事係が話していたのを聞いたんです。毎回どの料理もほんの一口程度減っているだけで、あとはごちそうさまというメモがあるだけで、ほとんど手つかずのまま戻ってくるらしいんです」

「なんでそれを早く云わねぇ?」

「私も彼らを問いただしました。そうしたら、一日目は食欲がないだけだと思い、二日目に何か変だと感じたようですがそのままにし、三日目になって漸くただ事ではないと思ったようですが今更云い出せない、と」

「・・・・・・あとでそいつの名前教えろ。ぶっ殺す」

顔をひきつらせた部下は、しかししっかりと頷いたのである。
そしてハーレムはさっさと部屋から出て行こうとした。

「ハーレム様、どちらへ?」

彼は何も云わなかった。
その足で、の部屋に向かったのである。
実はこのとき同じ部屋に、当然ながらマジックもいた。そもそもこの報告はマジックに対してされていたのだが、当のマジックは思案顔で何も云わず、代わりにハーレムが口を挟んできたので、いつの間にか彼への報告になり代わっていた。
だから彼らは気付かなかった。
マジックに背を向けていたティラミスも、今の報告に頭をいっぱいにしていたハーレムも、彼がこれ以上ないくらい意地悪くにやりと笑っていたことに、このときまったく気付けなかったのである。


*****


心底腹が立った。
聡明だと思っていた異世界の少女は、実は途方もない阿呆だったのだ。
あれから今日で三日が過ぎている。その間、まともに食事をとっていないとは一体どう云う了見か。殺される前に死んでしまおうとでも思っているならば本気で殴ってやろうと秘かに心に決めていた。
にあてがわれた部屋はさっきまで彼のいた総帥室と同じ階にあるが、ただでさえ広いガンマ団本部である。たどりつくまでに一苦労だ。
今までは苦でも何でもなかった道のりが、今は腹立たしかった。我知らず早足になる。
すれ違う団員たちはそんなハーレムの様子に怯えて蹴飛ばされる前に大人しく道を開けていた。
しかし、悪態の一つもつかずに過ぎ去っていく恐怖の大王の背を見送り、大いに首を捻ったものだった。
そんな団員などまったく視界に入っていないハーレムの意識はひたすらに向いていた。
正直云えば、彼女が餓死しようがどうなろうが知ったことではない。彼に被害があるわけでもなし、ただ一度関わってしまったためそんな死に方をされるのは目覚めが悪いというのは確かにあるが、極端にいえば関係ないのだ。
それでも腹が立った。
がこの世界に馴染まないであろうことは重々承知しているが、せめて元の世界に帰れるまではここにいなければならない。
ならば、そのときまでは五体満足、健康でいるのが最低の条件ではないか。
だというのに。
彼自身、なぜここまで腹立たしいのかまだ気付いていなかったが、実はこの理由に真っ先に気付いたのは彼の兄であることを誰も知らない。


*****


!!!」

びくんと身体が跳ねた。
どうやらあのまま眠っていたらしく、ベッドに横になっていた。
あれは夢だったのだろうかと思ったが、本能が告げていた。あれは夢ではない。あちらの、元の世界では自分は死んだのだ。
呆然としていたのもつかの間、ガン、とドアが殴られた。ぎょっとしてそちらを見る。

「おい、鍵開けろ!!」

ハーレムだった。
相当苛立っているのがわかる声音だ。三日前のことを思い出し、身震いする。まだ怖かった。
しかし彼は、なかなか反応しないに腹を立て、もう一度ドアを殴りつける。

「いい加減にしねぇとこのドアぶち破るぞ!!!」

それは勘弁してもらいたい。
慌ててベッドから降り、ドアに近付く。部屋の中でが動くのを気配で察知したハーレムはそれ以上ドアを殴ることはしなかったが、まだ外でイライラしているのが伝わってくる。
何の用があるのかはわからなかったが、これ以上彼を待たせるのはいけないと思ったは恐る恐る鍵を開ける。
そして、鍵が開けられるのと同時に突き破るようにハーレムは部屋に入った。驚いたはそのまま硬直してしまったが、そんな彼女など気にせずさっさと改めて鍵を閉めてしまう。
はっとした。室内に二人きりになるのはまだ怖かったのだ。しかしハーレムは容赦ない。鍵に手を伸ばしたの手を掴むと、ベッドに無理やり連れて行った。
この行動にはさすがにも抵抗した。が、男と女、年齢、力の差は歴然だった。
なす術もなくベッドに連行され、投げ出される。
最悪このまま襲われるのでは、という懸念は杞憂に終わり、予想していた展開にはならなかったが、ベッドの前に立つハーレムは明らかに怒っていた。が、には理由がわからない。

「てめぇ・・・」

その声にはびくりと身体を強張らせる。本気で殺されると思った。
しかしハーレムは仁王立ちしたまま動こうとしない。
ゆっくりと口を開いた。

「飯食ってねぇってどういうことだ?」

予想外のセリフにはきょとんとしてしまった。意味がわからず、疑問を込めてハーレムを見上げる。
すると、諦めたようにため息をついた。その顔はもう怒っていなかった。

「元の世界に餓死でもする気か」

頼むからまともに食ってくれ、と彼は云った。
やはり彼は優しい人なのだ。ぼんやりとは思った。
けれど。

「・・・おい?」

また泣いていた。
声にならないのはわかっていたが、口を開く。

もう、帰れない。

耳には届かなかったはずのセリフを、ハーレムは聞いた気がした。
もう帰れない。
きっとはそう云った。

「なんでそう決めつける」

ゆっくりと頭を振る。

私は、あの世界で死にました。

だから、もう帰れない。帰る場所はない。

私はきっと、一人きり。

泣きながら、は微笑んだ。つつけば壊れてしまいそうな笑顔だった。
なぜ。
なぜこんな子供がこんな思いをしなければならないのか。
悔しかった。
自分にはどうにもできないことだと知りながら、ハーレムは何もできない自分を酷く呪った。
気付けば、目の前の少女を抱きしめていた。
抵抗はなかった。
代わりに、小さな手が自分の服を掴んで、ひと際大きく泣いていた。

「・・・一人じゃねぇよ」

ハーレムの胸に額を押し付けたまま、は首を横に振った。
居場所のない自分は、一人きりなのだ。
けれど、それをハーレムは許さなかった。

「ここがお前の居場所だ」

が息をのむのがわかった。
ゆっくりを身体を離すと、涙に濡れた瞳とぶつかった。
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。

「―――ここにいろ」

一度大きく見開かれた眼からは、新たな涙が零れ落ちた。
そしては、くしゃくしゃに歪めた顔で、頷いた。










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さようなら、これからよろしくお願いします。