今は、ただ頑張るしかない。






Und der Engel ging hinunter.
第六話





翌朝、ハーレムに云われた通りの時間にしっかり準備をしては待っていた。あれからが泣きやむまで傍にいた彼は、朝になったら迎えに行くと云い残して去って行ったのだ。
そして昨日のことを思い出し、は急に赤面した。
抱き締められた。
それに縋りついた。
誰より優しく、ここにいろ、と云われ、頷いた。
まるでどこかの恋愛小説のワンシーンのようだ。考えるだけで恥ずかしい。出会ったばかりの人、しかもずっと年上の人に、恥ずかしいことをしてしまった。
今からその人と再び顔を合わせるわけだが、気まずかったらどうしよう。
一方そんなの葛藤など知る由もないハーレムは、ノックもせずに入室してきた。心の準備が出来ていなかったは慌てて立ち上がり、用意していた『おはようございます』という紙を見せる。おう、と短く答えた彼は、準備出来たら行くぞ、と云って欠伸をしながらさっさと背を向けてしまった。
呆気に取られたのはだ。昨日の今日である。何かあるかもしれない、と身構えていただけに、この反応には咄嗟についていけなかった。
しかしハーレムはもう出て行ってしまっている。
誓って、期待していたわけではない。期待はしていなかったが、なんだか憮然としてしまった。見失わないように彼の後姿を追いながら、ちょっとだけ頬を膨らませた。
追いついてきたを肩越しにのぞくと、何やら不満そうな顔を見つけた。にやり、とハーレムは笑う。

「なんか期待してたか?」

驚いて顔を上げ、意地悪げに笑うハーレムを見たは、次の瞬間すごい勢いで書いた文字を彼の目の前に突き出した。

『してません!!!』

酷い殴り書きだった。
そして、肩を怒らせた彼女はハーレムを追い越して行ってしまったのだが、数メートル進んだところでピタリと足を止めた。

「あん?どした?」

いきなりしょんぼりとしたは、何やら紙に書いている。力なくそれを後ろのハーレムに見せる。

『道がわかりません』

ならなんで先に行った。しかしこうは云わず、呆れて云った。

「お前、実は馬鹿だろ」


*****


総帥室にノックもせず内線で確認も取らずに入ってくるのは、ガンマ団中探しても彼の愚弟 らいのものである。
今回も大方そうだろうと思っていた。昨日途中で放り出した仕事がこの部屋に置きっぱなしになっている。それを片付けにやってきたのだろうと思った。
何気ないように振舞いながら、内心マジックはにやけたいのを我慢するのに必死だった。あの弟を見た瞬間この努力が無に帰す気がしてきた。おかげでこれまで以上に顔芸が達者になりそうである。
恐らく弟は気付いていないであろう事実に、彼はいち早く気付いてしまったのだ。
よもや、と思った。
しかし、兄弟は伊達ではない。部下以上に彼らはお互いをよく見ているし、何よりマジックはハーレムの兄、育ての親とも云える存在なのである。つまり、そんな彼が気付かないはずがない。
何に、と云えば、もちろんハーレムの感情に、である。
これまでの弟の女性関係はと云えば、派手の一言を極めていた。美女でスタイル抜群な女をとっかえひっかえ、まさに節操無しとはこのことだと思ったのは兄だけではないはずだ。
そのハーレムが!
そう思うと笑いが止まらなかった。
勿論遊びのつもりならば許しはしない。出会ったばかりの少女を、マジックは確かに守りってやりたいと思っていた。
彼が本気ならば、応援してやろうとも思っていた。
が、それとこれとは話が別だ。だからこそ意地悪げな笑顔なのである。
こんな楽しいことは滅多にない。
からかえるだけからかってやろうと、マジックは秘かに決めていた。
やはり演技ではあるが、緩慢な仕草でドアに目をやる。ひきつる顔を抑えるのがそろそろ限界だった。
そして、彼の予想ははずれてはいなかった。
ただし、予想外の人物と一緒に、予想外の登場をしたものだから、さしものマジックも閉口してしまった。

「おい、馬鹿兄貴。ここに置いとく間にこのクソガキの根性叩き直してやれ」

『お言葉ですが、人にそんなことを云う前に入室の仕方を覚えられては?』

「あん?関係ねーだろ」

『親しき仲にも礼儀あり、です。いくらお兄様とはいえ、非常識にもほどがあります』

「云ったな・・・」

『当然の意見です』

随分と仲のよろしいようで。
予想外過ぎる展開に、先ほどまでのにやけはきれいさっぱり消えてしまった。
代わりに疑問が浮かんできた。
一体なぜ急にこんなに打ち解けた会話をしているのか。
そもそも、が外に出てきた理由がわからなかった。彼女は、もはや自分たちに恐怖以外の感情など持っていないはずである。
そんな訝しげな視線に気付いたは、ぎゃんぎゃんと騒ぐハーレムを放ってマジックの執務机の前までやってきた。
マジックは何も云わない。今更何を云っても無駄だと半ば諦めていたと云ってもいい。どんな言い訳をしようと、結局は自分たちが戦争屋で、人殺しであることに変わりはないのだ。
相変わらず緊張したような表情のは、大きく息を吸ってから深々と頭を下げた。
これに焦ったのはもちろんマジックである。頭を下げられる理由が見つからない。むしろこちらがしなければならないことだと思っていた。

「やめなさい、くん。君は・・・」

云いかけたが、顔をあげた少女の表情に呆気に取られてしまった。
三日前には化け物かその類のものを見るような眼で見ていたそれは、今は穏やかに笑っていた。
ゆっくりと横に頭を振る。

『いいえ。私はとても失礼なことをしました。本当なら、こんなことでは済まされません』

くん」

マジックの制止も聞かず、はすらすらとペンを走らせた。

『ここが私の世界とは違うんだって、わかったつもりでいました。だから、どうしても自分の物差しで皆さんを見てしまいました。不審者扱いされてもおかしくない私に優しくしてくださったのに。私に危害を加えようだなんて、一度もしなかったのに』

淀みなくペンを走らせるが、その手が震えていることにマジックは気付いていた。
けれど、もう止めはしなかった。
彼女は一生懸命だ。
精一杯、自分の気持ちを伝えようとしている。
こんな優しい子をどうして止められようか。極悪人と云われてこそ当たり前である自分たちを優しいと云った少女を、どうして。
正面からはマジックが、少し下がったところからはハーレムが。そして、音もたてず入室してきた特戦部隊のメンバーが見守っていた。

『だから、私はちゃんと謝罪をして、お礼を云わなければならないんです』

虫も殺せないような白い手が、丁寧な字を連ねた。

『本当に、申し訳ありませんでした』

きちんと整った字は、きっと彼女の性格そのものなのだろうとマジックは思った。

『私に優しくしてくださって、ありがとうございました』

最後の一文字が書き終わったとき、そこにいたのは紛れもなく、天使だった。
座ったままそれを真正面から見たマジックは、一度大きく目を見開き、それから笑った。
本当にとんだ拾い者をしてしまったらしい。
恋とは違うが、彼は少女を愛しく思った。云うなれば、家族に向けるような愛情に似ている。掛け値なしに、守ってやりたいと思った。
しかし、確認しておかなければならないことはある。今更それを口にするのは憚られたが、これはそのままにしておける話ではない。
慎重に口を開く。

くん。君が、私たちを優しいと云ってくれるのは嬉しい。正直、過大評価しているとは思うがね」

するとは勢いよく首を横に振った。そんなことはない、と云うのである。苦笑し、小さく礼を述べ、続けた。

「けれど、怖くはないのかい?」

真っ直ぐに少女の目を見つめる。
血生臭いことなど何も知らない、純粋な瞳だ。
彼は今になって気付いたが、の瞳は珍しい色をしていた。立派な銀細工をそのまま映し出したような、綺麗な銀灰が鎮座していたのだ。
ともすれば吸い込まれてしまいそうなほど美しいその瞳は、やはり真っ直ぐにマジックの青を見つめていた。
そこには、少しの恐怖と、優しげな光が宿っていた。

『怖くないと云ってしまえば、それは嘘です』

少女は正直だった。
マジックもそれはそうだと納得していたので、今は然程落胆しなかった。寂しさは感じたが、全く怖くないと明らかな嘘をつかれるよりはましだったのだ。
しかし、の手はそれを書いただけでは止まらなかった。

『だけど私は知っていますから』

一度そこでペンを止め、ちらりとマジックを覗き見る。ゆっくりと微笑み、続けた。

『私は、みなさんが優しいのを知っています』

泣き出してしまった自分を疎ましく扱うでもなく、スカーフを手渡し、頭を撫でてくれた。
気遣わしげに自分に接してくれた。

―――居場所はここだ、と云ってくれた人がいる。

『だから、怖いけど、全然怖くありません』

一見矛盾しているように思えるが、これがの正直な気持ちだった。
理屈じゃないのだ。
にっこりと微笑んで、す、とそう書かれた紙をマジックの目の前に差し出す。

「・・・いや、参ったね・・・・・・」

完敗である。
もはや何も云うことはなかった。

彼女は、ここにいたいと云ってくれたのだ。










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決断