「なぁなぁ聞いたかぐはっ!!!」
ノックなしに開け放たれたドア目掛け、手元にあったリンゴを投げつける。それは見事にテッドの顔面に命中し、哀れな訪問者は不恰好に昏倒した。
倒れた拍子にガツッと床と後頭部との絶妙なハーモニーが奏でられる。いい具合で強打したに違いない。
は始終、手元の本から目を離さなかった。
「ノックをなさい」
「…………」
「返事」
「出来るかァ!!!!」
出来るじゃねぇか。
起き上がり抗議をしようとしたテッドに、二個目のリンゴが直撃した。
食べ物で遊んではいけません。






Das Gluck, das die Welt uberblickte T‐5





「ったく、なんでお前は先に手が出るかな」
二度もリンゴを受け止めたおかげで痛む顔面をさすりながら、テッドはささやかな抗議を試みた。どうせ口で勝てるはずはないと知っていても、往生際と諦めは悪い方である。拾い上げたリンゴは、残念なことに少々へこんでいた。
テッドがリンゴをテーブルに置き椅子に腰掛けたところで、は漸く顔を上げた。
長いデマントイドの髪、きらびやかなエメラルドの瞳。大理石のような白く滑らかな肌にはバランス良く眼、鼻、唇が敷かれ、少女とも女性とも云いがたい幼さと美しさを併せ持つ姿は妙に色香が漂っている。誰もが魅入ること間違いなしの容姿だった。
そんな端正な眉を潜め、はじとっとテッドを睨み付けた。
「レディーの部屋に入るときはノックするのが常識でしょ」
「レディー?」
「そう。レディー」
「悪い、俺ちょっとティルに辞書借りてくるわ」
「レディー:貴婦人、淑女。新明解国語辞典第五版より」
「言葉の意味は理解したけど、とは結びつけられない」
「よぅしいい度胸だテッドこっちおいで、ボコボコにしてあげる」
「俺、こそ真のレディーだって常に思ってるんだ」
「あらそうありがと。でも許さん!!」
「ぎゃあぁぁぁぁぁ!!!!!」
口は災いの元、という諺をテッドは学んだ。
正面の席で身を乗り出していたために、まともにアイアンクローを食らったテッドは、情けない悲鳴を上げた。細い指が容赦無くこめかみを締め上げ、恐ろしいほど痛い。
「ホントすみませんでした以後気を付けます許してください」
「ノックを忘れない?」
「忘れません!」
「私は?」
「まさしくレディーです!!」
「よろしい」
調教完了である。
細い身体からは想像もつかないような握力から解放されたテッドは、思わず若干距離を置いて息をついた。うっかり失言してまた同じ目に遇うのはごめんだった。
まるで悪戯をした悪ガキを懲らしめたあとのように意地悪く笑ったは、気が済んだのか、果物カゴに入れてあったナイフでリンゴの皮を向き始めた。
「で、何を聞いたって?」
「最初にそれを訊いてくれよな……」
「え、何?」
ポツリと小さく呟くと、しっかり聞き付けたがにっこりと笑顔でナイフをテッドに向けた。ひぃ、と肩を飛び上がらせたテッドは、何でもありませんと首を振る。
「だから、今日、ティルが皇帝陛下に謁見するって話」
「ああ……」
怯えるテッドをあっさり無視し、再びはリンゴにナイフを滑らせる。薄く剥かれたそれは、するすると長く続き、ついに途中で切れることなくテーブルに落ちた。
その先っぽを軽く指でつまみ、無造作にテッドのほうに寄越す。実ではなく皮でも食ってろ、ということである。
テッドは無言で受け取ると、ウサギのようにむしゃりと食べ始めた。
白く剥き出しになったリンゴを八等分に切り分け、きれいに芯まで取り除いたは、皿に盛りながら云う。
「それ、ティルが謁見するんじゃなくて、テオの謁見にティルがくっついてくってだけでしょ」
複雑そうな表情で皮を食べきったテッドは、呆れ顔でリンゴを頬張るを驚きの眼で見た。
「なんだよ、知ってたのかよ」
「昨日テオに聞いた」
「昨日?」
「そ。カナカンの蒸留酒なんて用意して、切り出した話が『ティルを近衛隊に入隊させても大丈夫か』なんて親馬鹿にもほどがあるわよあの男」
「……テオ様相手にそんなこと云うの、お前くらいだよ…」
実際はにかかれば皇帝でさえ呼び捨てになるのである。
すでにテッド的ビッグニュース!を耳にしていたことと、恩人――は頑として認めないが――に対してあんまりな言い種にがっくりと肩を落としたテッドは、気を取り直してリンゴの実に手を伸ばした。フォークの刺さった手近なものを引き寄せたが、よく見ると少しへこんでいる。さっき己を痛め付けてくれた局所だった。またもや複雑な気分に陥ったが、黙ってかじりつく。若干生温い。
「それにしてもティルが近衛隊ねぇ…」
「なんだよ?」
「いやぁ」
リンゴをひと切れ食べ終えたは、フォークをうろうろとさせながら思案顔になった。
「まぁ、戦争なんか起こらなきゃいいんだろうけど」
「はぁ?」
「ティルは優しすぎるって話」
ふた切れ目のリンゴを口に運ぼうとしていたテッドは、ハッとして固まった。が云わんとしていることを察したのだ。
「……戦争、か…」
それでも、テッドは思う。優しすぎるところが、ティルのいいところだと。
優しさは時には甘さと同義になる。戦争になれば尚更だ。
しかし、だからといって必ずしも冷酷である必要もない。ましてや、重責を任されるような立場にいないティルが、一般の近衛兵になるに過ぎない優しい親友が、冷酷無比な軍人になる必要など。
ティルには、例え戦争が起こっても優しいままでいて欲しいと思った。野兎ですら狩るのを躊躇ってしまうような、優しいティルのままで、いて欲しかった。
生きていく上で、さらにはこのままいけばいずれテオのような帝国軍人として剣を取るとわかっていても。
それでも尚、せめて今はまだ。
かじりついたリンゴは、相変わらず生温いが、甘かった。


その日の昼を過ぎ、空を塗り潰していた青にほんの少し橙色が混じり始めた時分。テオがバルバロッサとの謁見のために城へ向かう準備をし始めた頃だった。
自宅でのんびり本を読みながらお茶をしていたのもとに来訪者があった。

「坊っちゃんみませんでしたか」

開口一番である。
気配で誰かがやってくることはわかっていたし、どうせくだらないことだろうと見当をつけていたは、壊れるのではないかと思うほどの勢いで開け放たれたドアにも、その勢いのまま部屋に突入してきた人物にも目もくれなかった。
流し読みしていた雑誌のページを捲りながら答える。
「みてませんよ」
「嘘云わないでください私の坊っちゃん返してください!!」
「うっせえ誰も取ってないしお前の坊っちゃんなんかこの世に存在しねぇよ勘違いもほどほどにしろ!!!」
ガシッとの肩を掴み、噛み付かんばかりに鬼気迫る顔で叫ぶのは、マクドール家の居候その1、家政夫ことグレミオである。見ての通りマクドール家長男のこととなるとどうしようもない駄目男と化す困ったさんだが、料理の腕と戦士としての能力には評定がある。
そんなグレミオの鳩尾に拳をお見舞いし、は改めて椅子に座り直した。さっき肩を捕まれたとき、勢いよく前後に揺さぶられたおかげで、椅子は倒れてしまっていたのだ。
「てゆうか嘘ってなんなの。私にそんな嘘つくメリットなんかないんだけど」
「……坊っちゃんを探して慌てる私を見て大笑いする、とか」
「あんたが私をどういう目で見てるかよーっくわかった」
あくまで真顔で云うのでたちが悪い。半眼になって睨み付けながら、はため息をついた。この男は、ティルのこととなると本当に駄目男になる。
とはいえ、みていないのは嘘でないとしても、実は居場所は知っていただった。このままグレミオ自身が云ったように、ティルを探して慌てふためく様子を大笑いしてやってもいいのだが、帰りが遅いと思い始めていた頃だったので素直に教えてやることにした。
「ティルならテッドと一緒に狩りに行ってるわよ」
「狩りに?」
「そ。今夜はきっとご馳走になるからって、兎か鳥を狩って来るんだって」
「そ、そんな、食材はちゃんと用意してますのに……」
「だから、自分たちで狩ったものをご馳走にして欲しかったんでしょ」
ようは、そういうわけだ。今日は特別だから、特別なりに自分たちで狩ったものを食べてもらいたい。にはいまいち理解出来ない心理だが、こんなところだろう。
簡単な弁当を持って意気揚々と狩り場に出掛けていったのは昼前のことだから、軽く半日は経過している。収穫があったにしてもなかったにしても、そろそろ子供は家に帰る時間だ。しかもそのあとに皇帝との謁見――オマケではあるが――を控えているとなれば、それなりの準備もあるだろう。グレミオは夕飯のご馳走よりも、そちらのほうが重要に違いない。
「私、迎えに行ってきます」
「心配しなくとも、もうすぐ帰ってくるんじゃない?」
謁見のこと、あの子が忘れてなければね。
何でもないようにさらりと云えば、グレミオはサッと顔色を変えた。
「ま、まさか坊っちゃん…」
「テッドも一緒だし、まぁ心配は…」
あんまり取り乱されても面倒なので、安心しろと口を開こうとしたは、しかしそれ以上の言葉を紡げなかった。
「野盗にでも拐われたんじゃ!!?」
まぁ、いわゆる絶句というやつだ。
確かに可能性としてはないとも云いきれないが、それにしたって今のティルはそこらのゴロツキ程度に遅れをとるほど弱くはないし、テッドも一緒にいる。
幼少時に前科があるので思い至ったのだろうが、もう少し信用出来ないものか。彼らはそこまで子供ではないのだ。
「落ち着きなさいって。あの子らがそんなに簡単に拐われるわけないでしょ」
「わからないじゃないですか!!もしかしたらもしかするじゃないですか!!!!」
「だから、落ち着け。だいたい今のあの子に敵うやつなんかそうそういないってば」
「あああああ坊っちゃーん!!!!!!今助けに行きますからね!!!!!!!!」
……プチッ、と。
何か、神経的な何かが、切れた音がした。
踵を返して部屋を飛び出さんとしていたグレミオの足を、が実ににこやかな笑顔で払い倒したのは、直後のことである。
すでに身体のバランスが前寄りになっていたグレミオは、咄嗟に受け身も取れずに見事に前のめりに転倒した。傍にあった椅子も道ずれにしていたので、あとで直そうと頭の隅で考える。
「い、痛……何するんです!!?」
「足払いした」
「そういうことではありませんよ!!」
「つーか、仮に拐われてたとしてもよ、あんたが行ってもどうにもならないわよ」
「なんでですか!!!」
は容赦ない。
事実ではあるが、今それを云うにはあまりにも酷!ということを、あっさりと、云った。
「あんたティルより弱いじゃん」
この前の手合わせでこてんぱんにされたの、まさか忘れたの?
案の定、グレミオは動きを停止した。
「落ち着いた?」
「……落ち込みました…」
「それはよかった」
鬼!
辛うじて口にしなかったのは、あとが恐ろしいと本能が告げていたからだった。例え直後は何もなくとも、後々大変なことになるのは眼に見えていた。
ともすれば飛び出しそうになる単語を必死に抑えつつ、グレミオはそれでも諦めきれぬとばかりに食い下がる。
「でも、そろそろ帰ってきていただかないと、本当に謁見に間に合いませんよ」
「んー」
さん?」
怪訝に思って名前を呼べば、返ってきたのは生返事。は窓の外に眼をやり、じっと何かを探すように意識を集中していた。勿論、同じようにグレミオがそちらを見ても、さっぱり何もわからない。
「―――ああ、」
数秒後、はうんと一つ頷いて、新たなお茶をカップに注いだ。当然だが、自分の分の、である。
さん?どうしたんです?」
「あれ、あんたまだいたの?」
「酷い!」
「ティルもテッドももう少しで帰ってくるから、家にいたらいいのに」
「えっ」
ああでも、もしかしたら先にこっちに寄るかもね。
入り口のドアが勢いよく開いたのは、そう呟いた直後だった。
「あーちっくしょう!!」
「そうがっかりするなよ。僕だって、がっかりしてるんだから…」
「わかってるけどさーッ」
話題の人物、ティルとテッドである。
その会話と荷物の様子からして、収穫はゼロだったのだろう。時間をかけた割りに、情けない結果だとは冷静に評価した。
「あれ、グレミオ」
「ああ、おかえりなさい、坊っちゃんにテッドくん!お帰りが遅いものだから心配したんですよ!?」
「ご、ごめんごめん…ちょっと夢中になりすぎちゃって。それに結局兎も逃しちゃったし……」
「そんなことはいいですから!ほら、急がないとテオ様に置いていかれてしまいますよ!!」
「ええ、もうそんな時間!?」
途端、大慌てで荷物――狩り道具はほとんどテッドのものなのだ――を降ろし、愛用の棍を引っ付かんでティルは家を飛び出そうとしたが、しまったと云わんばかりにを振り返った。
「ご、ごめん、挨拶なしに上がり込んじゃって!」
何故必要以上に焦って云うのかといえば、理由は簡単だ。以前似たような状況になったとき、に気付いてもぞんざいな挨拶しかしなかったところ、こっぴどい仕打ちを受けたからである。それ以来、たちの家に入るときは、きっちりしっかり挨拶をするようになったのだった。まぁ、元はしっかりしているので、あの時は運が悪かっただけなのだが。
も鬼ではないので、この状況で尚以前のような説教をすることはせず、苦笑しながら云った。
「いいから、早く行きなさい。皇帝との謁見に遅刻なんてされたら、目も当てられないんだから」
「う、うん。行ってきます!」
「はいはい」
「坊っちゃん、急いでください!テオ様はもうお待ちなんですから!」
「えっ!?早く云ってよ!!」
と、悲鳴のような情けない声を上げ、今度こそティルは自宅へ向けて走り出した。グレミオも数歩遅れて、挨拶もそこそこに走り去っていった。
台風一過。
まさにその言葉が似合う時間だった。
「で?」
「で?」
台風が去ったあとに残ったのは、とテッド。この家の住人である。
愛用の弓を壁にかけ、今日使った狩り道具の具合を確かめていたテッドには云う。
「半日かけて収穫なし?」
「……悪かったな」
「悪かないけど」
腕落ちたんじゃない、と暗に云われ、ただでさえがっかりして落ち込んでいるのに、更に追い討ちをかけられた気分だった。
拗ねたように口を尖らせたテッドに、は容赦ない。
「兎一羽狩れないような貧弱な同居人を持った覚えはないんだけどなー」
「……待て次回」
「期待しないで待ってるわ」
意地悪気に笑ってみせると、テッドは恨めしそうにじとっとを見た。が、何を云っても事実は変わらないし、どうせ口では敵わないと知っているので、結局何も云わずに終わった。
「ところで」
と、唐突にが云ったのは、テッドが狩り道具を片付け終わり、熱いお茶を淹れて一息ついこうとしていたときだった。
茶菓子に伸ばしかけていた手を一旦止めたが、視線でなんだと問いながら、煎餅を一枚手に取る。がソニアからもらった、ちょっとお高い代物である。
「なんだよ?」
バリッ、と一口。
を見ると、にっこりと笑顔だった。
―――やばい。
本能的に悟り、身体を後退させようとして――出来なかった。
細くてしなやかでありながら、尋常でない力を発揮してくれるの手が、やけにゆっくりと自分の顔を掌握するのを、テッドはどこか他人事のように眺めていた。
そして。
「あんたもノックなしで入ってきたわね」
しかも、ただいまも云わずに。
テッドの悲鳴が、グレッグミンスターに響き渡ったのは次の瞬間だった。










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この話いるの?
とか思いながら書いたなんて、云わないっ☆(きらっ)