Das Gluck, das die Welt uberblickte U‐3





生まれてこの方……うん百年。と敢えてここではそう表現しよう。ともかく気が遠くなるほど長い年月を生きた中で、は学校に通ったことがなかった。まだ真っ当に年を重ねていた頃は、勉強はしても所謂家庭教師に似たようなもので、講師役を家に招いたり、はたまた母親がそれに代わる役目を果たしていたので、そもそも学校に通う必要がなかったのだ。故に、現在彼女は生まれて始めて"学生"と呼ばれる立場にいた。
非常に新鮮な気分だった。誰かにものを教わるということもそうだが、明確に立場として自分より上の誰かがいるというのも久しぶりだ。いや、久しぶりと云うにもおこがましい。運命の歯車が音を立てて回り始めてから、初めてと云っても過言ではなかった。解放軍にいた頃はリーダーがいたが、彼女は軍に所属したつもりは一切なかったので、つまりリーダーはの上官にはなり得なかったわけだ。屁理屈だと云われればそれまでだが。
そもそも彼女は学校というシステムをいまいち理解しておらず、入学したときは苦労の連続だった。寮暮らしももちろん初めてで、規則、人間関係、その他諸々のことを一度に頭に詰め仕込まねばならず、さしものも辟易した。
しかし時間に厳しいのは軍のようだと思ってしまえば気にならないし、人間関係も滞りなくそれなりに築ける。問題は授業だった。
さすがに長生きしているだけあって比較的大抵のことはそつなくこなすし、常識は当然のことある程度高いレベルの知識も備えている。しかしだからこそ、万能に近い能力を有しているからこそ、何をすればいいのかわからない。専門分野を見つけられなかったのだ。他人から見れば羨ましいほど腹立たしい悩みだったが、エミリア女史に専攻を問われたは本気で悩んだ。
敢えて云うならば紋章学なら世界中どこを探してもの右に出る者はいないだろう。しかし極めきったものを学ぶことなどないし、むしろそれに関してはが教鞭をとるべきですらある。教員のプライドと彼女の平穏な学生生活の保守のために、決して口にはしないが。
あんまりにもが悩むので、見るに見かねたエミリアはとにかく色んな授業を体験してみることを勧めた。その中でも一番興味を惹かれたことを専攻すればいいというのである。下手な鉄砲数打ちゃ当たる。鉄砲なんて代物はギルドくらいにしか存在しないが。余談である。
結局1週間体験授業を受けたが選んだのは歴史学だった。最も、歩く歴史と称しても間違いでない彼女が学ぶ歴史などほとんどないのだが、それを文献として形にするということが興味深かった。別にこれまでの歴史すべてを文献にするつもりではないが、少なくとも現在信じられている間違えた歴史だけは訂正したいと思っていた。
いくら不慣れな環境とはいえ、何度も云うがは長生きしている。それはつまり適応力、応用力に優れるということでもあり、一月と経たずに彼女はあっという間に学園に溶け込んだ。まるでずっと前からそこにいたかのように、至極自然に、そこにいた。

事が起きたのは、彼女が入学して2年が経った頃だった。
ハイランド王国が、都市同盟諸国を蹂躙し始めたのだ。
以前からその兆候はあった。しかし、ここに来て急速にハイランドは攻め込んできた。
それでもグリンヒルにはまだ手をかけないだろうと甘く見ていたのが失敗だったが、ともかくの予想より早くハイランドはこの市に目をつけた。確かに立地条件を考えてもグリンヒルは落とすに越したことはない場所だ。が、時期以上に驚いたのは指揮官だった。遠目に見ただけなのではっきりとは云えないが、どうみても子供だった。まだ10代半ばのように思える少年だったのだ。
さらに、いくらこちらが油断していて準備不足だったとはいえ、がいてシンがいて、その上予想外の協力者がいたグリンヒルを、陥落させた。しかも、ほとんど双方無傷の状態で。
冷静であり、冷酷でもあり、そして何より聡明だった。ミューズの残兵を利用し、グリンヒルの優しさ――悪く云えばお人好しさを利用した、無血開城。兵糧どころか市民の食料すら不足していた状態での持久戦には無条件降伏せざるを得なかった。腹立たしいことこの上なかったが、こちらの事情を看破した見事な策だった。
この作戦を考えたのがあの少年だとすると、これから先都市同盟軍は些か苦労するだろうな、とは他人事のように思った。実際、グリンヒル以外の都市がどうなろうが彼女には関係のない話だ。軍も戦争も馬鹿々々しい。は、もうそんなものに関わるつもりはないのだ。
そんなことよりも、今はグリンヒル。
あの騒動のどさくさに紛れてテレーズを隠したところまではまぁ及第点だろう。しかしそこから先がにっちもさっちも行かない。予想以上にハイランドの監視が厳しく、動くに動けないのだ。
現実的な話、の力があれば王国軍を蹴散らすのは簡単だ。
しかし。しかし、それはつまり、撃退ではなく殲滅を指す。いくらでも市民を護りながら7千の兵士を相手に無傷で終わらせることは難しい。しかも訓練された兵士は、例え適わない敵に遭遇したとしても引かないのだ。先にあるのが負け、己の死であろうと、国のため、己のプライドに掛けて、決して引かない。
けれどはそうしない。正確には、出来ないでいた。
何故なら彼女は知ってしまったから。
死の痛みを知ってしまったから。
3年前。解放戦争の中で、は大切な人を失くした。300年を共にした、かけがえのない存在だった少年を、失った。哀しくて苦しくて辛くて、痛かった。死ぬほど、痛かった。死ねない身体で尚、死にそうなくらい痛くて堪らなかった。
だから彼女は、死なせないと決めた。殺さないと決めた。
あんな思いをするのも、誰かにさせるのも嫌だった。それが例え敵であっても。
敵であっても彼らは人間で、故郷には大切な人がいるだろう。家族であれ、恋人であれ、友人であれ。
誰かが死ねば、誰かが哀しむ。そんなものはもうたくさんなのだ。
だからは、もう殺さないと決めた。
この状況で、と詰られるかもしれないが、どうなろうと彼女は出来るだけ穏便にことを進めるつもりだった。
あの少年の指揮官のように、無傷で。戦争の中、無茶苦茶なことかもしれない。けれど、出来ることなら。

しかし世界はあっけなく、の思いを打ち破る。
グリンヒル奪還作戦を練りながら日常を送っていたに、学園への編入生の知らせが届いた。
ふうん、と特に気にすることなく話を聞いていた彼女は、まだ知らなかった。

ぐるり、と。
再び紋章の運命が動き出す。










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漸くみんな出せる…!