受け流すこと。
回避すること。
見ないフリをすること。
なかったことにすること。
忘れてしまうこと。
全部私の勝手なエゴだった。
そうすれば、傷付かずにすむと。少なくとも、傷を軽減することくらいは出来るだろうと思っていた。
そんなはずはないのに。
いくら背を向けたって、現実はいつでもそこにある。変わることなく。色褪せず。絶対的に。
本当は、わかっていた。
受け流すことも。
回避することも。
見ないフリをすることも。
なかったことにすることも。
忘れてしまうことも。
全部、悪足掻きだったのだ。
どうにもならないことに気付いて尚、みっともなく醜悪に、それでいて鮮やかに私は悪足掻きをしていただけだった。
徒労でしかないと、知っていた。
往生際の悪さも自覚していた。
それでも受け流し、回避し、見ないフリをし、なかったことにし、忘れてしまおうとしていた私は、"私"を護りたかっただけなのだ。
すべてを犠牲にしても、私は"私"を護りたかった。
傷付きたくなかった。傷付くことが怖かった。
あんな思いをもうしたくなくて、私は逃げ出した。
でも―――

「―――もう、限界かなぁ……」

限界なんて、とっくの昔に迎えていたのだけれど。知らん顔して無視していただけで。
本当は、ずっと昔から手遅れだったのだけれど。
きっと、私が"私"になった瞬間から、手遅れになっていたのだろうけれど。

3年前、何よりも護りたかった人を死なせてしまった。
誰が何と云おうと、あれはほとんど私のせいだった。
私の見通しが甘かったから、あの子は紋章を使わなければならないような状況に陥り、結果としてそれが直接の原因となり、あの子を死に追いやった。そりゃあ、星の巡りも多少は関係していたかもしれないけれど。
護りたかったはずのものを失った私には、私を護ること以外出来なかった。
あんな思いを二度としないように。
逃げて逃げて逃げて、傷付かないように。
もう、護りたいものなんて、作らないように。
けれど、無理だった。
300年も大切なものが傍に在り続けていた私は、大切なものを持つことに慣れすぎていた。
本当に逃げ出したかったならば、3年前に逃げ出すべきだったのだ。
誰も訪れないような山奥にでも籠るべきだったのだ。
それなのに、私は結局旅をして、グリンヒルに辿り着いた。そうして、留まってしまった。
テレーズが受け入れてくれたから。
住民が受け入れてくれたから。
グリンヒルが、優しかったから。
私は甘えて、2年を過ごしてしまった。
たった2年だ。
那由多ほども世界に在り続けた私の、たったの2年。
300年もあの子と一緒にいたことを考えれば、その100分の1以下の、ほんの僅かな時間。
それでも、自分なんかを護ることよりも、ずっと重要なものになるには、些か充分過ぎたようだ。
受け流すこと。
回避すること。
見ないフリをすること。
なかったことにすること。
忘れてしまうこと。
今更そんなことは出来なかった。
今更そんなことをするのは、あんまりにも薄情すぎる。
だから。

「―――さて」

立ち上がる。
この大好きな部屋からグリンヒルを見下ろすのも、きっと今日が最後になるのだろう。
眼下には、学園前の公園に集まった住民と王国兵。
まだ、テレーズの姿はない。
けれど彼女はやってくるだろう。
自分以外の誰かが、もう傷付かないように。
自分が傷付いても、誰かが傷付かないように。
でも、そんなのは駄目だ。
我が侭でいい。自分勝手と云われても構わない。

―――テレーズが傷付くのは、私が許さない。

あの子は今まで頑張ってきたのだ。
心に数えきれないほどの傷を負って、満身創痍になりながらもたくさん頑張ってきたのだ。
市民のため、グリンヒルのために。
自らの傷も省みないで、ひたすら頑張り続けた、強い子なのだ。
だからもう、傷付く必要なんてない。
だからもう。

「そろそろ私の、出番だよね」

楽隠居なんて、してる場合じゃないんだよね。
そして、テレーズ・ワイズメルが公園に姿を現したのと同時に、私は2年間過ごした部屋をあとにした。
振り返りはしなかった。
胸には、決断を。
手には、2年振りに手にする武器を持って。

私は、もう一度歩き出す。






Das Gluck, das die Welt uberblickte U‐8





住民のざわめきは、一気に静まり返った。まるでそれは水面のように。しん、と静まり、誰もが息を飲んだ。
こつん、こつん。
ヒールの音だけが、やけに大きく響き渡る。
導かれるように一人が学生寮の方向を振り返り、また一人、また一人と振り返る。我知らず、そこにいた誰もがそれにならっていた。黙って学生寮のほうを見ていた。
こつん、こつん。
ゆっくりとした足取りは、着実に公園の中心、事態の中心へと向かっている。
そうして道が割れた。遅まきながらやってきた人物のために、無意識に住民たちは道を開いていた。
その住民の間を、軽く俯きながら、彼女は歩く。
グリンヒルの地を、しっかりと踏み締める。
こつん、こつん。
こつん。
ブーツの踵を合わせ、彼女は――は。テレーズのすぐ前に、立ち止まった。
いつもの制服姿ではない。
流しっぱなしにしていたデマントイドの髪は濃緑の麻紐で高く結わえられ、眼鏡はしていなかった。
紺色を基調としたロングコートの前は解放されたままで、下にはハイネックのスーツのような服を着ている。細いウエストを強調するかのようなベルトは濃茶で、すらりとした肢体を際立たせていた。普段の制服姿からは、まったく想像もできないような格好だった。
何よりの印象を変えていたのは、その手に握られた長い布だ。身の丈ほどもありそうな布の下には、棒状の何かが入っているように見受けられた。
まるで、戦いにでも赴くかのような、出で立ちだ。
思わず息を飲んだテレーズはこの姿を知っていた。忘れもしない、初めて彼女に出会ったとき。は、まったく同じ格好をしていた。
けれど。彼女は云っていたはずだ。
もう嫌だと。
戦いたくないんだと。
だから逃げてきたんだと。
それなのに、一体どうして。
テレーズの目の前に立ち止まったは、ややあって顔を上げ、微笑んだ。
それはとても、哀しげに。
云う。
「テレーズ」
云う。
優しく、優しく。
「頑張ったね」
せっかく我慢していたのに、テレーズは目頭が熱くなるのを止められなかった。
「あんたは偉いよ、すごく偉い」
はすべてを知っていた。
テレーズの苦悩も哀しみも、全部。
シンにもニナにも云えなかった悩みを、は何も云わずに聞いてくれた。そうしていつでも、テレーズの気持ちを尊重してくれていた。
テレーズも、ほんの少しだけのことを知っていた。
戦いたくないと云ったが、誰より優しいことを知っていた。
「今までいっぱい傷付いたね。辛かったよね。苦しかったよね」
そんなこと。
そんなことはないとは、云えなかった。今口を開いたら、涙声しか出そうになった。市を預かる身としても、そんなみっともない姿は晒したくない。仕方がないので、グッと下唇を噛み締め、頭を横に振った。
は続ける。
「グリンヒルのみんなは、みんな――テレーズ。あんたのことが大好きよ」
私だって、と心の中で叫んだ。
「あんたは市長代行だけど、だからって傷付かなきゃいけない道理はないわ。そりゃあ、人より負わなきゃならない責任は多いし、重いかもしれないけど。それに、あんたはもう充分傷付いた。打ちのめされた。なら、これ以上なんて、もうないわ」
頭を振る。
そんなの関係ない。関係ないのだ。
「今まで、頑張ったね」
はその優しい掌で、テレーズの頬を撫でた。
愛おしそうに。最大級の慈愛を持って。
「もう、テレーズは傷付かなくていいんだよ」
もう、いっぱい傷付いたんだから。
もう。
「これから先、まだまだ大変なことがあるかもしれないけど、あんたはもう傷付かないで、ただ自分とグリンヒル、護りたいもののために、自分の思う通りに動いたらいいの。それで充分なんだから」
テレーズはのエメラルドを見つめた。
いつもは優しげに、ときどき悪戯っぽく輝いているその瞳には、今は強い光が宿っていた。
「今度は」
力強く。

「―――私が、頑張るよ」

テレーズばっかりに頑張らせてたら、不公平だもんね、とは笑った。
笑った。
それはいつものの笑顔だった。大丈夫、と云われているような、どこか見ているだけで安心出来る、綺麗な笑顔。
テレーズは、に出会ってから今日までずっと、こんなに励まされ続けていたことを思い出した。
辛かったら何も云わずに傍にいてくれたし、哀しかったら肩を抱いて気がすむまで泣かせてくれて、嬉しければ一緒に喜んでくれた。
テレーズはが大好きなのだ。
強くて優しいが、大好きだった。
出来ることならこの先ずっと、が苦しくないように。そんなことを思っていた。
がこの場に現れたことを考えれば、何をしにきたのかは察しがつく。けれど。

「私にこの場、預けてくれる?」

それが意味することは、戦闘以外にはない。今更話し合いで片付く事態ではなくなっているのだから。
頷く、ということは。
にこの場を預ける、ということは。
に戦わせる、と云うことで。
戦いたくないと云った、を戦わせるということになるわけで。
そんなものはテレーズの望むことではなかった。
はテレーズに、もう傷付く必要はないと云ったが、テレーズだって同じ気持ちだ。
詳しい過去は知らない。
けれど、何かがあったから、は戦いたくないと云ったのだ。云わせるだけの何かがあったはずなのだ。
煌めくエメラルドには、揺らぎはなかった。
そしてテレーズは思い知る。
どうして自分に、彼女を止めることなど出来ようか。
自分の思いを抑え込み、その上で戦いを決意した彼女の思いを、どうして止められるだろうか。
テレーズには出来なかった。
今にも泣き出したくなる思いを無理矢理閉じ込め、声を絞り出す。

何、と笑った。
ああ。
「私は不甲斐ない市長代行でした」
は黙っている。
「大事なときに何も出来なくて、市民を傷付けてしまいました」
は何も云わない。
「代行失格かもしれません。役立たずかもしれません。もしかしたら、私じゃない人が市長代行にしたほうがいいのかもしれません。だけど」
でも。
「市民を護りたい気持ちに、嘘なんて一切ありません。護らなくてはならない。これは、私の、私としての義務だと思っています」
だから。

。―――私と、戦ってくれますか?」

あなたが戦うと云うのなら。
戦うことを拒んでいたはずのあなたが、戦うと云うのなら。
私には力はないけれど。
私に出来ることがあるならば。
見つめたは、一瞬目を見開いたあと、ゆっくりと微笑んだ。

「―――当たり前でしょ?」










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今更ながら、Tエピソードを踏まえないとわからないであろう設定があるって気付いたけどホント今更だから開き直ってもいいかな。いいよね。答えは訊いてない!(訊けよ)