『世界をひとつに、未来をひとつに』 目を閉じる。 口をつぐむ。 耳を塞ぐ。 世界も未来も、真っ暗になる。 |
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「今日から彼女には、司書として働いてもらうわ」 ディアドラが連れてきたのは、若い女性だった。二十代前半だろうか。少なくともソフィアよりは年上に見え、ディアドラよりは年下に見える。 サイナスの外れに暮らしていた彼女は、ディアドラの持つ"果てなき道程の書"の導きによって星の印を得たのだと云う。元々は一般の協会員に過ぎず、街中ではなく郊外に住んでいたはずの彼女がなぜいきなり星の印を得ることになったのかは語らなかったが、まぁそれは説明する必要のないことだとディアドラが判断したのだろう。ならば気にすることはない。 書物の整理をしていた手を止めてディアドラに注目していたのだが、結局自分にはどうでもいいことだと判断したコノンは、さっさと仕事に戻ろうとした。仕事は山ほどあるのだ。つまらないことで、いちいち作業を中断させないでほしい。 「コノン」 と、背中にかかる、ディアドラの声。 振り向いたらいけない気がする。しかし、無視をするのはもっと悪いだろう。 嫌な予感をびしびしと感じつつ、コノンは恐る恐るディアドラを振り返った。ちらりと素早く視線をさ迷わせてみると、近くにいたはずのファーガスは消えていた。あの豚。次に顔を合わせたときには目の前でサイナス一と名高いケーキを見せつけながら食するという嫌がらせをしようと決めた。 「この子に仕事を教えてあげて頂戴」 眩しいまでのディアドラの笑顔に呆気にとられて、反応が一瞬遅れたのが運の尽きだった。 「……はぁッ!?」 「私はベルフレイド総長のところに行ってるから、仕事、サボらないでね」 「ちょ、ディアドラ!!」 なんで僕なんだとか適任ならファーガスだろうとか拒否権はないのかとか、云いたいことはたくさんありすぎたが、どれからまず訴えるべきか考えている間にディアドラは姿を消していた。その場に残っているのはコノンと彼女――名前を云っていた気がするが、どうでもよかったので忘れた――だけだった。 ディアドラの姿がないのをいいことに、しかし小声で悪態をついたあと、コノンは残された彼女を無遠慮に観察した。 肩の上で切り揃えられた真っ直ぐな栗色の髪、シミひとつない象牙の肌、サファイアを埋め込んだようなきらびやかな瞳、形の整った桜色の唇にスッと通った鼻立ち。文句ない美女であることは間違いない。コノンにだって、人並みの美意識はあるのだ。 しかし、決定的に足りないものがある。 表情だ。 どこかにまるごと忘れてきたかのように、彼女には表情というものがなかった。伏せ目がちなサファイアからはなんの感情も読み取れない。 コノンの第一印象は、人形みたいなやつ、である。 「おい」 非常に不本意で非常に不愉快ではあるが、ディアドラの言葉は総長の言葉に等しい。気はまったく進まないことだし七面倒でも、云われたことはやらねばなるまい。 「名前は」 「……………」 「名前」 自分が聞き流した事実はスルーである。あくまで自分のほうが立場は上であると態度で主張しながら、コノンは問うた。 「………」 感情のない目をコノンに向けた彼女は、何度か瞬きを繰り返したあと、小さく呟いた。 「……」 「そう。じゃ、さっさと仕事覚えてよね」 他人の面倒見るなんてごめんなんだよ、と吐き捨て、促しもせずコノンは自分の持ち場に足を進めた。ディアドラが見たらため息とともにお説教もくれそうだが、残念ながらここに彼女はいない。 何の説明もなしにいきなりここに連れてくることはないだろうから、教えることはそう多くはないはずだとわかっていても、面倒なものは面倒だ。彼女に仕事を教えたからといって、コノンの仕事量が減るわけでもないに決まっている。早いうちに教えてしまおうというのは、彼は意外と嫌なことは先に片付けるタイプの人間だからだった。 「司書ってからには本の整理を…」 と。 気が遠くなるほど本が並ぶ、自分の持ち場まで来て漸く後ろを振り返ったコノンは、途中で言葉を失った。 がいなかった。 「あのアマ…ッ」 まさか逃げ出したのだろうか。考えて、あり得ないことだと頭を振った。ディアドラがいるかぎり、出会ってしまったからには逃げ出すなど不可能だ。それを知らないわけではあるまい。 単に歩くのが遅いだけだろうかとも思ったが、生憎足音すら聞こえない。 そして、はた、と気付く。 ―――そういえば、最初から足音はしなかった。 まさかまさかまさか。 嫌な予感というか、なんというか。あり得ないだろうという思いと、あり得そうだという思いがコノンの頭を混乱させる。 速足で元いた場所、受付カウンターまで戻ってみて、彼には非常に珍しいことではあるが、がっくりと肩を落とした。 は、一歩も動いていなかったのだ。 「君ねぇ…、何考えてるわけ?」 「…………」 「何とか云ったらどうなの」 つかつかとの目の前まで歩き、指を突き付けながら思いっきり渋面で云う。が、小さく首を傾げるだけで、彼女はやはり表情を変えなかった。 コノンは気の短いことに評定のある人間だ。こんなの様子に苛立たないわけがないのだ。 一気に不愉快を通り越して不機嫌面になったコノンは凶悪そのものだが、はそれにも眉ひとつ動かさない。 「ディアドラに何て云われたかしらないけど、君は僕から仕事を教わらなくちゃならないんだよ」 「…………」 「なのに、なんでついてこないわけ?」 双貌のサファイアが、じっとコノンを映す。彼女の瞳に映った自分を、まるで海に落ちたようだとぼんやり思いながら、コノンはの言葉を待った。返答次第ではこの場で教育放棄も辞さないつもりである。ディアドラに煩く云われるだろうが、それは云われてから煩わしがればいいことだ。今は、目の前に煩わしい事象がある。 暫しの沈黙の後、は小さく口を開いた。鈴の鳴るような細い声は、しかしはっきりとコノンの耳に届く。 「云われなかったから」 「は?」 「ついてこいって」 「…………」 「だから」 つまり。 コノンが、に、仕事を教えるから自分についてこい、と云わなかったから、ついていかなかった。 そういうわけだった。 「………ああ、そう」 これが、ファーガスやビアズレイだったり、あり得ないがディアドラだったりしたら、タメなしで怒気と毒雨をお見舞いしていたに違いない。 しかし激しく脱力し、怒る気も嫌味を云う気にもならなかったのは、が他意なく、本気で云っていたからだろう。表情は相変わらずだが、眼を見ればわかる。彼女の眼に、邪な考えや、人をからかう様子は見られなかった。 「ったく……、ディアドラも面倒なことを押し付けてくれるよ」 ディアドラが聡明な計算高さを備えているのは知っている。腹に何か抱え込んでいるのも、知っている。そんな彼女が、他に適任者がいるにも関わらずコノンにを割り当てたのだから、何か意図があってのことだろうとは思っていたが。 「あの陰険ババァ……」 なんとなくだが、彼女の狙いがわかってしまったコノンが、思わず暴言を口にしてしまっても罪はないだろう。事が事なのだ。渦中に巻き込まれること決定なコノンは、被害者だと主張出来るはずだ。 ちら、とを見る。やはり、無表情で立っていた。 「あー、ホントにもうッ」 面倒臭い。 煩わしい。 勿論、拒否権があったのなら迷わず行使していただろう。 しかし拒否権は与えられず、残されたのはという人形のような女だけ。 ガシガシと頭をかき回したコノンは、遂に、覚悟を決めた。 やれ、と云われたのだ。 やるしか、ないのだ。 「いくよ」 「………?」 「こっち」 手を伸ばし、乱暴にの腕を掴む。 「僕が仕事を教えてあげるんだ。感謝しなよ」 そして、さっさと歩き出す。それなりの速度で歩いているので、多少を引っ張っている感じではあるが、残念ながらコノンはそこまで気の回る男ではない。 持ち場を目指しながら、軽くを振り返る。 表情を失った彼女を、ディアドラがどうしたいのかは知ったことではない。 けれど、結局は決まっていることなのだから。 「世界をひとつに、未来をひとつに」 すべては決まっている、運命。 ------------------------ |