『大きくなったらおねーさんと結婚しよう!』


 太陽みたいに笑いながらそう云ったあの人は、もうここにはいなかった。

 年の差。
 三つ年の差が恨めしくて、仕方がない。






君よどうか待っていて





 僕が一年生だったとき、あの人は四年生だった。
 僕が三年生だったとき、あの人は六年生だった。
 僕が四年生になった年、あの人は卒業した。

 結婚しようと云う言葉が冗談だったのか本気だったのか、あの人が忍術学園から遠く離れた城に就職してしまった今、真実は謎のままだ。
 けれど多分、冗談だったのだろうと僕は結論付けた。何故なら僕とあの人は三つも年が離れているし、それを抜きにしても釣り合っていない。
 あの人は学年一のくの一で、僕はただの万年学級委員長。成績が良くなくとも学級委員長にはなれる。しかし、学年一にはなれない。

 あの人は本当にすごい人だった。


「庄左ヱ門」

「ん?」

「溜め息。どうかした?」


 休み時間。ぼーっと窓の外を眺めていると、隣に座っていた伊助に軽くつつかれてハッとした。
 いつもは喧しすぎるほど喧しいこのは組がだんまりで。しかも、十の視線がすべて僕に向いていた。これでもは組のみんなの信用を勝ち得ている自信はある。そして、滅多にみんなの前で悩んでいる姿を見せない僕を、みんなは心配してくれているのだろう。ありがたかった。


「いや、なんでもないさ」

「・・・・・・ふーん、ならいいけど」


 このクラスのみんなとは今年で付き合いが六年目になる。なので、それぞれがそれぞれの性格を、完璧にとは云わないが掴んでいる。勿論、僕が云わないと決めていることは云わない、と云うのもわかっているから、伊助は少し僕を見つめたあとまた教科書に視線を戻した。他のみんなも然り。再びは組は本来の喧しさを取り戻す。 それもありがたかった。
 ありがとう、と小さく伊助に云い、また何となく空を見た。絵の具の青をぶちまけたような空の色は鮮やかすぎて、無性に腹が立つ。

 もうすぐ次の授業が始まる。さて、今日はどこからだったろうか。パラパラと教科書をめくっていると、伊助がぽつりと呟いた。



先輩のことなら、心配することないと思うよ」



 ・・・ときどき、本気で伊助が僕の心を読んでいるんじゃないかと疑いたくなれときがある。


「あと、空に八つ当たりなんかしないように」


 訂正。
 伊助は確実に僕の心を読んでいるに違いない。





「庄左ヱ門くーん、お客様だよー」


 トテトテと間抜けな足音と共に登場したのは、案の定、事務員の小松田さんだった。
 正門で待ってもらってるから急いで行ってあげてね、と云う小松田さんに、わかりました、と返事をする。


「お客さんなんて珍しいね」

「うん、誰だろう?」


 とりあえず行ってくる、と伊助に断り、正門に急いだ。
 秋の夕暮れは思いの外寒いが、羽織るものがないので我慢だ。どうせお客と云っても大した用事ではないだろうから、さっさと会ってすぐ部屋に戻ろう。
 そう考えながら足を進める。正門が見えてきた。小松田さんの背中が見える。恐らく訪問者と話しているのだろう。まったくまた事務の仕事を疎かにして。


「小松田さん、いいんですか?また吉野先生に怒られますよ?」

「わ、それはイヤだ!それじゃあまたね!」


 いつでも遊びにきてね、なんて事務の云う台詞じゃあないだろうに。そんな台詞はせめてまともに事務の仕事をこなせるようになってから云ってもらいたいと思うものだ。
 しかしやけに親しそうに話していたのは気のせいだろうか。僕のお客様じゃなかったのか?
 そして僕は、今、小松田さんと話していた人を見て、一瞬呼吸の仕方を忘れた。



「や、久しぶりだね庄左ヱ門!」



 会いたかったぞー!

 なんて云って僕に抱きついたのは、幻ではない、本物の―――先輩だった。


「ホントはもっと早くに会いに来たかったんだけどね、予想外に仕事が忙しくて来られなかったんだ」


 ごめんね、と云う声が。
 会いたかったよ、と云う声が。
 僕の鼓膜を優しく刺激する。
 三年前より幾分柔らかくなったその声音は、三年前と変わっても、確かにこの人のものに違いなかった。


「庄左ヱ門?」


 何も云わない――否、云わないのではなく、正確には驚きのあまり声が出ないだけなのだけれど、彼女はそんなことを知らない――ので、不安を感じたのだろうか。そっと離れた先輩は、僕を見上げた。そうして、自虐的な笑みを浮かべて云ったのだった。


「もしかして、私のことなんて忘れちゃったのかな?」

「そんなわけありません!!!」


 とっさに叫んだ。突然のことに驚いたように先輩はぱちぱちと瞬きをし、それから嬉しそうに微笑んだ。


「よかった」


 云わなければ。何か云わなければ。
 考えあぐねていると、また雛菊先輩が口を開いた。


「庄左ヱ門、背、伸びたね」

「そっ、そうですか?」

「うん。だって私が卒業したときは、まだこんなに小さかったもの」


 こんなに、と彼女は米粒くらいの大きさを指で示す。一寸法師じゃあるまいし、いくらなんでもそれはないだろう。そこまで小さかったら人間捨ててますよ、と答えながら、僕はおかしくて笑いが止まらなかった。


「ちょ、ちょっと庄左ヱ門、笑いすぎよ!」

「あはは、すみません、つい」

「もう!」


 変わっていないことに安心した。この人は、卒業したときから何も変わってはいない。成長は確かにしただろう。けれどきっと、本質的なところは何も変わってはいないのだ。
 その事実にホッとしたら、どうしてから笑いが止まらなくて、子供のように頬を膨らませて僕を睨む先輩が可愛くて、やっぱり僕は暫く笑っていた。


「久しぶりに会ったのに、随分失礼ね」

「はは、すみません」

「うわ、絶対すまないと思ってないでしょ」

「思ってますよ」

「嘘つきー」

「嘘じゃありませんよ」


 三年前にぱたりとなくなったこんなやり取りは、ただ懐かしかった。
 三つ年上の先輩と話していると、時折どっちが年上だかわからなくなるときがある。普段はしっかり者なのに、ふとした瞬間ネジをどこかに落としてきたような言動を見せるのだ。

 学級委員長繋がりで知り合って暫く経った頃から、いつしか先輩は例の結婚しよう発言をし出した。正直最初は戸惑ったけれど、何度も繰り返し云われ続ければ嫌でも慣れる。一ヶ月もすればあっさり流せるようになり、すると先輩は意地になったように云い続けた。
 嬉しくないわけはない。僕も、少なからず先輩に対して好意はあったのだから。その当時、それが憧れだったのか尊敬だったのか、恋だったのかはわからないけれど、確かに先輩のことが好きだった。
 先輩が本気だったならば大喜びした。しかし、あまりに軽く云ってのけるので、いまいち真偽を図りかねたのだ。
 そして反面、先輩が自分を好きになどなるはずがない、と心の奥で思っていた。違いすぎる。自分たちは。
 きっと先輩の"好き"は『弟に対しての愛情』の"好き"なのだと思っていた。
 自分にとって、先輩は、まさに高嶺の花だったのだ。


「ねえ庄左ヱ門」

「はい?」


 ふと、先輩は真剣な眼差しを僕にぶつけてきた。どきりと心臓が跳ねる。


「私ね、本気だったよ」

「なにが、」


「結婚しようって、本気だったよ」


 電撃が身体中を駆け巡った。このとき、僕はもう寒さなど忘れていた。手足の感覚などとうに失っていた。
 視線が絡まり合う。冗談を云っているような目でないことはわかっていた。
 何を云えばいいのかわからない。
 自分が次の瞬間何をしたかも覚えていない。しかし、腕の中の温もりを感じた瞬間、自分が先輩を抱き締めたことに気付いた。


「僕は」


 必死で言葉を探す。声を絞り出す。
 泣いてしまわないように、堪える。


「冗談なんだと、自分に云い聞かせてきました」


 自己防衛。もしも自分の先輩に対する"好き"が『愛する人に対する』"好き"なのだと気付いたとき、そして先輩の言葉がからかっているだけなのだとしたとき、傷付かないようにするために。


「釣り合わないと思っていました」


 だって僕らはあまりに違いすぎる。


「でも」


 それでも。



「あなたがずっと好きでした。」



 腕の中の先輩を思い切り抱き締めた。背中に回っていた先輩の腕も、強くなる。胸の辺りがじわりと冷たくなったような気がした。


「しょうざえもん」


 涙声。今はそれすらもひたすらに愛おしい。
 なんですか、と相槌をうつ。くぐもった声が続いた。





「私もあなたが、すき。」





 三つの年の差は一生埋まらない。それでも想い合うことはできた。

 置いて行かれると思うのは仕方ないのかもしれない。だって彼女はいつも僕の前を歩いていってしまうから。

 けれど、いつでも彼女は待っていてくれる。僕が追いつけるように、ゆっくりと歩いてくれた。

 それに漸く気付いた。

 追いつくことは叶わないけれど、歩き続けることはできると気付けた。

 今はまだ遠いこの距離も、いつかは縮めることができるのだろう。


 腕の中の温もりを愛おしく想いながら、僕はそんなことを考えた。


『大きくなったらおねーさんと結婚しよう!』


 目を閉じれば、三年前の姿の先輩の笑顔が浮かんでくる。



 この人と一緒に、幸せになりたいと思った。










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長くなりすぎて途中で何書いてるかわからなくなったなんて云わない。云わない。云わない……(がくり)