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憧れて、憧れて。 もしも願いが叶うなら、ソレになりたいと思った。 叶うことなどないとはわかっていたけれど、それでも望まずにいられなかった。 ぱしゃり、水がはねる。 は足袋を脱ぎ、袴の裾を捲って小川に足を遊ばせた。この時期の日なたは確かに焼けるように暑いが、木陰は意外にも涼しいもので、はちょうど小川沿いにある木陰を見つけてそこに腰を下ろしていた。 今日、忍術学園は休日だ。つい昨日まで期末テストが行われており、教員たちはそのテストの採点に追われている。 はと云えば、普段の休日ならば自主練に励むところだが、今日はなんだかそんな気にはなれずに外に出てきた。難しい授業やら厳しい実習やらでいい加減疲れていたし、気分転換も兼ねての散歩だった。 同室の友人に断って、外出許可を貰って出門表にサインして。久しぶりに何の目的もなく出かけるのは、意味もなくわくわくした。 ぱしゃり。気温とは反対に冷たい小川の水は心地良い。 どこかに行こうと決めていたわけでもないし、これといって行きたい場所も思い当たらなかったので、はとりあえず暫くはここで時間を潰そうと決めた。それにここは人通りも少ないらしいので、こんな風に小川に足をつけていても咎められる心配はない。 ぱしゃり。足を動かしながら、は夏休みのことを考えた。どうせは実習でほとんどの日を埋められているので家に帰るつもりはなかった。たまの休みは学校でのんびりしようと友人たちと話したのは最近のことだ。恐らく、忍たまのほうの友人たちも同じ考えだろう。彼らはたちくの一よりも過酷な実習を行っているのだから。 (あの人は、どうだろう) ふと脳裏をよぎった人物。誰よりも好きな人。 あの人が残るならいいのに、と思って、しかし彼が残るからといってそれは自分なんかのためではないのだと気付いて自嘲する。可能性のない期待は、あまりに、哀しい。 (でも、嬉しいものは嬉しいんだわ) ぼんやりと足を動かしながら考える。 未だ誰にも気付かれてはいないであろうこの気持ちの清算は、いつ、どこで、つけたらよいのだろうか。卒業まで、もしかしたら卒業してからも、うまく消化することが出来ずに抱き続けるのかもしれない。 そう思うと、意図せずため息が落ちた。サラリとの黒く長い髪が肩を滑る。 「おや、」 突然背後聴こえた声には一瞬驚き慌てて振り返った。いくら休日だからといって完全に一般人のようにいられるはずもなく、一応警戒線は張っていたのだが。油断していたらしい。全く気付かなかった。 なんて失態――と自分の怠慢さを呪おうとして、振り返った先にいた先ほどの声の人物を見つけては拍子抜けしたように肩を落とした。 「珍しいところで会いましたね」 そう笑うのは、忍術学園教員の斜堂影麿。一年ろ組の教科担当担任である。 相変わらず不健康そうな顔色で、痩せすぎではないかと思うほど細く、笑うと少々不気味にも思えてしまうが、生徒思いの心優しい教員だ。 『引きこもりの潔癖症』教師である斜堂が外を出歩くことは少ない。夜や夕方ならまだしも、今のようなまっ昼間に出歩くのは本当に珍しいことだった。 「いつもなら鍛錬場にいる時間でしょうに、こんなところで」 「たまにはのんびりしようと思いまして。それに先生こそ珍しいじゃないですか。どうしたんです、こんな真っ昼間に」 太陽の光なんか浴びて大丈夫なんですか、と笑えば、短時間なら大丈夫なんです、と笑って斜堂は答えた。小さく噴き出して、そうですか、とは云う。 見てくれはこんなだが、意外と斜堂はノリがいいことをは知っていた。 「それより先生、ホントにどうしたんですか?まだテストの採点が終わってないでしょうに」 「まぁ、確かに終わってないんですがね」 「サボリですか」 「・・・・・・・・・・・・さん?」 「ふふ、冗談ですよ」 ジト目で――もっとも、普段が普段なのであまり変わらない気もするのだが――を見てもあまり意味がないことを、今年で六年目になる付き合いの中で斜堂はとっくに気付いていた。ケロリとした顔をするはどんな場面であれ斜堂を見ても驚かない、恐らく学園唯一の生徒だ。 まったく、と笑ってから斜堂は先ほどのの疑問に答える。 「さっきまでは採点作業をしてたんですがね。部屋で」 「あー、もしかして日向先生が?」 苦笑する。それは肯定の意の反応だった。 その間に、斜堂はと同じ木陰に入り息をつく。木に寄りかかったり腰を下ろしたりはしない。もわかっているので何も云わずにまた足を水にさらし始めた。 「少し寝るといったのに、熟睡です」 「しかもイビキが凄まじい、と」 「参りましたよ、騒音被害届出したいくらい」 「保険降りますかね」 「どうでしょうね」 期待はしませんが、とまた斜堂は笑った。賛同するようにも笑う。 「それで避難してきたんですね」 「ええ。こんな機会がないと外には出ませんし、それになんとなく気が向いたので」 「気分転換?」 「そんなところです」 「じゃ、一緒ですね」 蓮見は笑う。 穏やかに時間は流れていった。 「先生」 「はい」 「『斜堂影麿の聞いてみnight!』とかいって相談室開きません?今昼間だけど」 「・・・・・・さん、ネーミングセンス皆無ですね」 「ほっといてください」 「冗談です。・・・何かありました?」 珍しいと思う。今までずっとのことは見ていたが――良い意味でも悪い意味でも、はよく目立つ生徒なのだ――、あまり人に相談したりはしないような子だと斜堂は認識していた。友人にはしていたのかもしれないが、少なくとも彼はこれまで授業の質問以外の相談は受けたことがなかった。 だから内心驚きながら、の様子を窺う。しかし、その表情から読めるものはない。は感情を隠すことに長けていた。忍者として生きて行くためには不可欠なだけに、それだけには優秀とされている。ここまできれいに、ましてや教師にまですっかり感情を隠せる生徒は、なかなかいないだろう。 それでも斜堂は何かあったのだと確信に近い何かを感じていた。なんとなく。何故、と訊かれれば、感、としか云いようがないのだが。 ぱしゃり。水をはねらせ、は静かに目を伏せて云った。 「特に今、ってわけでもないんですけどね」 柔らかい風が吹き、二人の頬を撫でる。 「私、水になりたいんです」 ぽつりと独り言のように呟くを、斜堂は穴が開くほど見つめた。何を云い出すのかという疑念を込めて。 そんな視線を受けたは苦笑する。 「おかしいですか?」 「おかしい、というか、らしからぬ発言だとは」 「そうでしょうか」 「私はそう思いました」 「・・・・・・そうですか」 それきり、は黙ってしまった。ぱしゃり、と時々水を遊ぶ以外に音はない。 どうしたものか、と斜堂内心困っていた。明るく元気で成績優秀で、いつも人の中心に立つようなからは、今のような発言はまったく想像できなかった。だから、思わず『らしくない』だなどと云ってしまった。まるで彼女のことをなんでも知っている風な物言いには自分でも呆れる。 もしや、黙ってしまったのはこれが原因なのかと深読みしてしまう。しかしその可能性もあり得るので、とにかくも斜堂は口を開いた。 「気を悪くしたならすみませんでした」 「え?」 「いえ、さっきの」 「あ、なんだ、違いますよ!やだ先生、そんなに気なんて遣わないでくださいな」 「しかし、」 「もう、いいんですったら。それに、その通りだと思いますし」 云ったは立ち上がり、その狭い小川の真ん中まで歩いてから斜堂を振り返った。笑う。 「なんだか、私らしくないですよね。似合わないっていうか」 咄嗟に、そんなことは、と云いそうになって斜堂は慌てて言葉を飲み込んだ。そんなことはないなんて、何に対しての否定だ。わけがわからない。 は酷く諦めたように笑っている。 「どうして」 「はい?」 苦し紛れに紡いだ言葉は疑問だった。 斜堂は続ける。 「どうして、水に?」 問う。訊かれるとは思っていなかったのか、はきょとんと大きな目を瞬かせた。 ややあって、そっとは微笑む。その微笑みはどこか遠くをみているようで、まるで、―――そう。例えるなら、恋をしているような、そんな目をしていた。 「だって、」 気付かれないように斜堂は小さく息をのんだ。 「水は、キレイだから。」 羨ましい。 キレイになりたい。 キレイでありたい。 少なくとも―――好きな人の、傍では。 ---------------- 斜堂先生がすごく好きです。あれっでも美化しすぎたかしら(笑) ちなみに続きます。連載というほどではないけど。 |