勿忘草




「先生、私のお願いきいてくださいますか?」

 秋、夕暮れ。
 紅色に染まった景色の中、まるでこの場所だけ刻が止まったような錯覚に陥る。あまりに幻想的で美しい妄想を、しかし斜堂は断ち切った。
 ―――何を考えているのだろう。
 自分を心の中で抑えつけた。
 そんなことは有り得ない。刻が止まるはずはなく、その証拠に今も風は穏やかに流れている。
 意味もなく飲み込んだ唾が喉を通る音が、やけに大きく聞こえるように感じて斜堂は緊張した。
 普段通りにしようとすることがそうしようと意識するとこうも困難になるものなのか。次の言葉を探しながらぼんやり考えた。
 自分は普段と同じに振る舞わなければならないのだ、と。二尺ほど離れた位置から彼を見上げる眼を見て、何故か漠然と思った。
 だから彼は、そうしようと躍起になる。
「・・・・・・私に出来ることでしたら」
 だと云うのに、頬の筋肉を僅かに持ち上げてたった一言返すのが精一杯だとは、何とも情けない。
 上手く笑えていた自信は皆無だったけれど、彼女はさして気にしていないようだった。
 微笑んで、続ける。
「先生でないと、意味がないし叶えられないことなんです」
 彼女は、後ろにしていた手を前に持ってきて、その手にあるものごと斜堂に差し出した。
 それは栞だった。
 押し花で作られたらしく、小さな青い花が挟まれていた。
 受け取ってください、と云われ、ハッとして慌ててそれを手を伸ばした。普段通りにと思っていたのに、最早そう思っていたことすらも忘れている。
 受け取った栞を改めてまじまじと見てみると、繊細に作り上げられたことがよくわかった。
「その花の花言葉、ご存知ですか?」
 問いに、暫し考えてから首を横に振った。
 そもそも斜堂はこの花の名前すら知らなかったので、花言葉など尚更わかるはずがない。
 青く小さな花。
 記憶を掘り起こしてみても、こんな花は見たことも聞いたこともなかった。
 カチリと、彼女と、―――と、目が合う。
 そうして、斜堂は酷く驚かされた。



「『私を忘れないで』」



 と初めて出会ったのは、彼女が二年生のときだった。
 それから数えて五年。

 ―――こんな表情は見たことがなかった。



*****



 昔、とっても仲の良い男の子と女の子がいたんだって。

 その二人が、山登りに出かけたんだって。

 手を繋いで歩いて唄を唄いながら山を登っていくと、川が見えたんだって。

「かわいらしい花!」

 すごい勢いで流れる川のすぐそばに、青い花が咲いていたんだって。

 男の子は、大好きな女のこのためにそのを取ってあげようと思ったんだって。

 でも、花に手を伸ばした瞬間、男の子は足を滑らせて川に落ちてしまったんだって。

 男の子は慌てて花を掴んで、女の子に投げ寄越したんだって。

 そしてそのまま川に落ちて、流されてしまったんだって。

 轟々と流れる川の音に混じって、男の子の声がしたんだって。

「大好きだよ!いつまでも僕を忘れないでね!」

 そのときから、その青い花にはこの名前がついたんだって。



*****



 あの明るく快活な笑顔の印象が強すぎて、彼女でもこんな表情をするのか、とただ驚いた。
 無理して笑おうとして、失敗したような。そんな顔で、は必死に笑顔を作ろうとしていた。

 けれどその顔は一歩間違えれば泣きそうな、そんな表情で。

 斜堂は言葉を失った。
「―――先生、これが・・・私のお願いです」
 懇願するような声音に、斜堂はたじろいた。
 忘れるはずなど。
 そう一言云えばいいのかもしれない。けれど、安易にそれを口にするのははばかられた。
 いつものように笑って、忘れませんよ、と云うのは、彼女を傷付けるであろうことを直感していたからだ。
「先生」
 夕暮れは、いつの間にか夕闇に変化を遂げようとしていた。橙色から藍色へのグラデーションが鮮やかだった。
 それを背景にしたの声は、すぅと闇に染み込むように馴染んで、そっと斜堂の鼓膜を刺激する。
「斜堂先生」
 もうすでに、の声は泣き出しそうに震えていた。それでも泣かないのは、彼女のプライドのせいかもしれない。
 求められたことは至極簡単だった。しかし同時に困難でもあった。
 確かに最初にが云ったように、これは斜堂にしか叶えられない願いだ。
「斜堂先生」
 はとても優秀な生徒で、よく斜堂に懐き、彼が最も可愛がった生徒だった。だから、そんな彼女の願いなら出来れば叶えてやりたいと思う。まして、それが自分にしか出来ないとなれば尚更に。
 それでもとっさに云うべき言葉を見失ったのは何故なのか、斜堂自身、皆目見当がつかなかった。
「・・・・・・先生、」
 何か云わなければならない。
 黙っているほうが彼女に不安を与える。

 しかし、何を?

 斜堂の頭には、やはり最初の言葉しか浮かんでこない。
 ああ、そうか、それならば。
 意を決した。
 受け取った栞をギュッと、折れない程度の力で握り、空いたほうの手をの頭に乗せた。


「―――忘れません」


 俯いていたの肩がビクリと跳ねる。斜堂は苦笑した。
 そろそろと顔を上げた彼女は、先生、ともう一度呟いた。
 安心させるように、斜堂は静かに繰り返した。

「忘れませんよ、さん」

「斜堂先生、」

「大丈夫ですから」
 とうとうは両手で顔を覆って泣き出してしまった。
 いつもなら慌てるところだが、今はさほど慌てずにいられる。逆に、ああ、よかった、とさえ思えるのは教師として失格かもしれない。
 それでも斜堂は微笑んだ。大丈夫です、と微笑った。





(私を忘れないでと全身全霊で訴える、それはこの世で最も儚く美しい花の名前)










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シュチェーションてなんですか。(お前!)(あのとりあえず卒業が近いとゆー設定でお願いします)(ウワァン)
・・・相変わらず終わらせ方が微妙で泣きたいで、す・・・(ガクリ)