行かないで、なんて云えなくて。

 私はいつも、涙を飲むのだ。






君がいなくなる前に





 空を切る手があまりにも虚しく、そしてあまりに哀しかった。掴もうとした彼はもうここにはいない。つい先ほど、任務だと云って出発してしまった。
 いってらっしゃいとは素直に云えなくて、任務なんて、と。仕事に嫉妬した。哀れだと思う。切なかった。
 うまい言葉が思いつかず、何も云えない。

 二・三日で帰る、と私の背中に向かって云った彼に、私は無言だった。口を開けばいかないでと口走ってしまいそうで。そんなことを云う権利など私には与えられていないのだから、云ってはいけないから、無言を貫いた。

 いかないで

 たったの五文字が私の心を締め付ける鎖となって離れない。辛い哀しい寂しい、痛い。涙は出ない、代わりにきつく唇を噛む。血が出た。

 いかないで

 短い言葉は異様なほどに大きく私の中で響いて、次第にその音量を増幅させていく。
 それはまるで私を蝕む病魔のような音だった。侵食される、音に。


 ただ、

 むなしい。








 ただいま、と彼が姿を見せたのは一週間後だった。

 振り向いたらボロボロだったから驚いて急いで医務室に連れて行った。普段は新野先生や伊作、他の保健委員がいるはずなのに、なぜかその日に限っていなかったから、私が治療を施した。沈黙。彼は何も云わず、じっと傷口を見ていた。

 痛くない?

 訊く。
 彼は頷いた。

 怪我はここだけ?

 訊く。
 彼はまた頷いた。私を見ようとはしなかった。何故。ぐるぐると頭が混乱する。きっと帰って来て最初に私に会いにきたであろうに、今は、ちっとも私を見ようとしない。

 なぜ。



「ただいま」


 視線がかち合った。
 その彼の目が云っていた。

 おかえりと、云って、と。


 涙で彼の、文次郎の顔がぼやける。終いには目を閉じてしまったから全然見えなくて、でも、抱きしめてくれたからそこに確かに文次郎がいるということはわかって。

 出かけていったときにはでなかった涙が漸く、帰って来て漸く。

 流れた。



「おかえり」



 背中に手を伸ばす。そっと触れる。文次郎はそこにいた。暖かさは変わらないまま。ただ、傷をこさえてきただけだ。文次郎はここにいる。


 広い胸に涙をこぼしながら、私はおかえり、を繰り返した。










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