朧気な記憶を引っ張り出して無理矢理浮上させることを繰り返す。無駄な足掻きであることはとうの昔に気付いていた。けれど自分に忘れることなど許されてはいない。永遠に許されはしないだろう。何せ自分の犯した罪は哀しくも重すぎたから。
 吐き出した白い溜め息はすぐに消えた。その儚さはまるで自分を鏡映しにされたかのようで少し虚しい。

 神田ユウは夜明け間近の教団内部を一人歩いていた。昼間の喧騒はすっかり消え失せ、ところどころ部屋に人の気配はあるものの廊下は静寂そのものだった。そこを歩けば嫌でも足音が辺りに響き渡る。
 カツン、カツン。
 耳に届くその音をこの上なく鬱陶しく思った。しかし足を止めないからブーツは鳴る。イライラした。

 眠れないので部屋を抜け出し適当に歩き回っていただけなので、明確な目的地は定めていなかった。それでもいいと思った。―――どうせ、この世の殆どが行きたい場所ではないのだから。自分の求める場所は、酷く限定的なのだ。

 決して手は届かないのだと諦めてしまえばいいものを、何時までも未練がましくしがみついている。あまりの馬鹿々々しさに嫌気がさした。自業自得だといっそ笑われてしまえばまだ楽になれた。腹は立つだろうが。



 自分が塔の屋上に向かっていると気付いたのは螺旋階段の中頃にきたときだった。星空を眺めて感傷に浸るようなロマンチストではないが、何となく足が向かっていたのだ。引き返すのも面倒だったのでとりあえず足を進めた。どうせ時間を持て余しているのだから、どこにいても同じだと自分に言い聞かせつつ。
 屋上の扉を開けると、一段と冷え込んだ空気が肌を刺した。冬の空気は恐ろしく冷たい。大きく息を吸い込めば身体が芯から凍えそうだ。
 深い藍色の空に散りばめられた星屑が、己の存在を煌々と主張している。殆ど夜の間しか見ることの出来ないこの光は、何万光年も昔の光なのだと思うと妙な気分になる。
 少しだけ、自分と重ねてみた。自分の選択は、これから何年か後に輝くだろうか。間違ってはいなかったのだと思える日は、果たして来るのだろうか―――。
 考えて、そんな無意味な疑問は切り捨てた。疑問と共に、脳裏に浮かんだ何よりも大切だった人の顔も振り払った。柄でもないことはしないことだと思った。虚しくなるだけなのは、もう十分わかっているのだから。

 今夜は満月だ。霞みがかった月は切ないほどに美しい。その月に見下ろされた自分がとても卑小な生き物に感じられて、無意識に眉間にしわを寄せた。普段は誰にどう思われようが何を云われようが関心などまったくないのに、どうしてか不快になった。
 そして、原因は月の光にあるのだと気付いた。あの月の光は、切り捨てた過去に似ている。


『ユウは月みたいだね』


 今となっては過去にしか存在し得ない人が、成長していない当時の姿のまま、浮かんだ。
 遠い孤児院にひとり残してきた人。
 たった一人の家族だった人。

 何より大切だったはずの、双子の姉。

 捨てたのは自分だ。正当のような理由を己に云い聞かせ、彼女には何も告げずに孤児院を飛び出した。
 ただひとつ失敗したのは、出ていくことを最後の最後に気付かれてしまったこと。
 出来るなら、激しい雨と闇に紛れてそっと消えてしまいたかった。そして、いっそ自分のことを忘れて欲しいとも。
 けれどそれは叶わなかった。
 いざ孤児院から飛び出そうというときに、背にしていた扉が慌ただしく開いた。名前を呼ばれた。大切なたったひとりの姉の声だった。腕を掴まれた。必死に自分を行かせまいとする声と、震える手は、自分がそうさせているのだ。
 きっとこのとき姉は泣いていた。
 振り向けなかった。
 顔を見たら。
 見てしまったら。

 自分まで、泣いてしまいそうだったから。

 情けないと思いながら、手を振り払い、振り向かず、ただ涙を堪えて闇に突っ込んだ。そうすれば全てが闇に消えてくれると、幼い自分はそう信じていた。愚かだった。浅はかだった。消えることなど有り得ないのに。

 あの日確かに失ったものは、この世で最も守りたい人だった。
 自分が傷ついても構わないしそれを厭わない。何もかもを犠牲にしても笑っていて欲しい。

 大切なのは、あの人だけなのだ。
 この手で振り払った、あの人だけなのだ。



 満天の星空と満月が、自分を嘲笑っているかのような、そんな夜だった。

 目を閉じれば今でも、幼いままの、あの人が。






忘れられない、それが【罪】





(罰ではなく)

(それが、罪)











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連載したい。


20100401 再録