「はいっ!」 ずい、と目の前に差し出されたのは小さな紙袋だった。 自宮の書斎で仕事をしていたシュラは、の小宇宙が近付いて来ていることに気付いてはいたが、特に気にも留めていなかった。 何故なら彼の守護する磨羯宮は彼女の滞在する教皇宮から悪友とも云うべきデスマスクの守護する巨蟹宮へ行く際には当然通るし、教皇宮から、十二宮を降る際にも当然通るからだ。 それに、いちいち自宮に近付く小宇宙に気を取られていては、とても仕事になどならない。 この十二宮ではテレポーテーションが使えないのだ。従って、女神であろうと教皇であろうと黄金聖闘士であろうと、誰もが己の足でこの長い階段を歩かねばならない。 つまり、特別宮に用事がなくとも、移動のためには通り抜ける必要がある。 だからシュラは、自宮に近付くを気にすることなく仕事を続けていた。 のだが。 「シュッ、ラーっ!」 バタン、と勢いよく書斎のドアが開いた。ノックはなく、やけにテンションの高いの声とともに。 まさかわざわざこちらに立ち寄るとは思ってみなかったシュラは、突然の来訪に一瞬固まった。てっきり素通りするとばかり思っていたのだ。 そして、次のの台詞に、ただでさえ引っ込んでいた声を、さらに飲み込む羽目になったのである。 「誕生日プレゼント!」 満面の笑みで云われ、シュラは反応に困った。 この書斎にいるのは自分だけで、今やってきたは自分に話しかけているわけで。 数瞬考え、やっと思い出す。 「―――ああ、」 ちらりと暦を見れば、1月12日。 「忘れていた」 今日は、シュラの24回目の誕生日だった。 |
われもこうのはながさく
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そして話は冒頭に戻り、シュラはから紙袋を受け取った。目の前で開けることはしないが、紙袋からは何やら上品な甘い香りが漂ってくる。 シュラに紙袋を渡したは、呆れたように腰に手を当てた。 「忘れてたって、自分の誕生日じゃない」 「最近忙しかったんだ」 「あ、文句は蟹さんに云ってね。あれが暗号なんて書くのが悪いんだから」 「…暗号……」 「アフロディーテとシュラ以外、解読不能のきったない字!」 おかげでこっちの仕事にまで支障が出たのよ、と口を尖らせたを見、しかしそんなことを俺に云われても、とシュラは思うのだった。いくら同年でも、デスマスクの失態をまるで自分の失態のように云われるのは納得いかない。 が、それこそそんなことをに云ったところで聞いてもらえないのはわかっているので、賢明なシュラは、それは申し訳ない、と小さく謝ることで済ませた。 「ああ、もう。デスマスクのことはこの際いいの」 「そうか」 「帰ってきたら説教だけどね」 と息巻くの目は完全に据わっていた。相当腹が立っているらしい。 今は任務で聖域にはいない同年の同僚を思い、彼が帰ってきた直後は絶対に教皇宮には近付かないことをシュラは心に決めた。巻き添えを喰らうのは御免だ。デスマスクが聞けば、薄情者、と眉を吊り上げそうだが、どうせもし逆の立場になったら彼とて同じ選択をするはずである。 「ね、それより、開けて開けて!」 パンと一度手を打つと、一転笑顔になり、何が楽しいのかにこにことしたは紙袋を受け取ったままのシュラに開封を催促する。 目の前で開けるのは、と思ったが、くれた本人が開けろと云っているのだ。書きかけの書類と羽ペンを執務机の端に寄せたシュラは、閉じたままでも十分甘い香りを発するそれを開封した。 「…………」 「シュラ、そこのチョコ好きでしょ?」 常日頃、冷静な光を宿しているシュラの鋭い瞳が、好きなお菓子を与えられた小さな子供のようにパアッと輝いたのをは見逃さなかった。ひとまずは安堵する。店の選択は誤っていないらしい。 がシュラに渡したのは、とあるショコラ専門店の代物だ。しかし単なるショコラ専門店ではない。世界一予約の取れない店といわれる某有名レストランでデザートシェフを勤めた、オリオール・バラゲのショコラだった。 同じ高級ショコラでも、意外と簡単に手に入るゴディバやデメルと違い、オリオールは完全予約制なのでおいそれと気軽に買いには行けない最高級ショコラなのだ。 確かにシュラは以前一度これを食べたことがあり、あれは美味かったと話をしたことがあったかもしれない。が、間違ってもギリシャの下町に売っている代物ではないはずだ。 「どうしたんだ、これは?」 思わず問えば、はキョトンと目を瞬いたあと、云う。 「予約して、買いに行ったんだよ」 何を当たり前のことを、とばかりに首を傾げるに、シュラは軽い戦慄を覚えた。 まず、そもそもは、和菓子はともかくとしてケーキなどの甘い洋菓子が大嫌いなはずである。ディスプレイの前を通ったときに香る甘さで顔をしかめるというのに、よもや店中カカオの香り漂うショコラ専門店など、例え一瞬であれに耐えられるのだろうか。菓子店に足を運ぶを想像しようと試み、あまりに似つかわしくないことに身を震わせた。それくらい、は甘いものが嫌いなのだ。 その上、多少値段は張ろうともオリオールはショコラファンを魅了し、予約が数週間待ちというのはザラで、ものによっては月単位で待たされることすらある超人気店だ。 そう簡単に予約して買った、と云えるはずがない。確実に買うには、少なくとも一月は前に予約しなければならないだろう。 「よく買えたものだな」 「まーね!」 すごいでしょ、と胸を張り、続いては箱まで開けるよう云った。 「多分びっくりするから、ちゃんと中身も見てみて」 「十分驚いているんだが」 「もっとなの!」 何故か自信満々である。 とはいえ、シュラは二つの意味ですでに驚いている身であり――特にが菓子店に赴いたことだ――、これ以上に驚くことなどそうはないだろう、と思っていた。それに、聖闘士たるもの、ちょっとやそっとのことで感情を揺さぶられていては情けないことなのだ。先ほどオリオールを目にして軽い興奮を覚えたことは、断じてデスマスクやアフロディーテにはバレたくないことである。 しかし、云われた通り箱を開封したシュラは、恐らく人生最大宮の衝撃を受けることとなった。 「こ、これは……!!」 「すごいでしょ?今年の新作なんだって!!」 紙袋はが用意した無地のものだったので、紙袋から出して箱を見てオリオールとわかった。しかし、てっきりコレクションシリーズのショコラだろうと見当をつけていたのだが、とんだ大間違いだった。 箱を開け、文字通りシュラは絶句したのである。 上品な甘い香りに鼻を擽られ、口にする前からすでにほんわかとした気分になったシュラの目に飛び込んできたのは、黒の光沢も鮮やかなチョコレートケーキだった。艶やかなブラックチョコレートでコーティングされた円形のケーキのサイドには薔薇を模したクリームで飾られ、綺麗な飴細工とアプリコットのドライフルーツ、オリオールコレクションが一粒添えられている。 何も、チョコレートケーキだから驚いたのではない。それくらいはギリシャの下町に、高級とは云えずとも満足出来るくらいのものが購入できる。 しかし、何しろオリオールである。 しかも、何しろ最新作である。 実はケーキ自体あまり作らないオリオールのケーキ、更に最新作となれば、競争率は相当高かったに違いない。 興奮と歓喜と、信じられないような複雑な感情が入り交じった難しい表情になったシュラを見、はいよいよ得意気になった。 「ね、すごい?予約するのに5時間も待ったんだから」 さらりと云ったにギョッとしたシュラが口を開く前に、は云っておくけど、と遮った。 「私が勝手にしたことなんだから、気にしないでよね」 「しかし、そんなことはサガが…」 「大丈夫。付き合わせたから」 それはそれで大丈夫ではない気がする。目眩がした。 やはりこんな高級品、簡単に手に入るはずがないのだ。いいのだとは笑うが、手間を掛けさせたと思うと申し訳ない気分になった。 けれど、同時にとても嬉しかったのも本音だ。 シュラにせよ、聖闘士、特に黄金聖闘士は、プレゼントを贈られることや誕生日を祝われることなど無縁だった。それは聖闘士に必須なことであるわけではないし、それにここ数年はごたごた続きだったせいもある。ほんの幼い頃ならば家族に祝われたりしていたのだろうが、物心がついてすぐに聖域に迎えられたシュラの記憶からはすでに失われてしまっていた。 勿論、ぼそりと溢したことを覚えていてくれ、あまつプレゼントとして贈ってくれたことは嬉しい。 しかしそれ以上に、自分の誕生日を祝ってくれたことが、嬉しかった。 ケーキとを交互に見やる。はどこか楽しそうに笑顔を浮かべている。 申し訳ない気分は拭えない。けれど、の気持ちは嬉しくて。 逡巡した末、シュラは素直にこの好意を受けとることにした。 「ありがとう。こんな嬉しいものを貰ったのは、初めてだ」 「よかった!ホントはね、デメルかヴィタメールかルルーか悩んだんだけど、シュラにあげるならスペインのチョコがいいなって思ったから探したの」 「スペインの?」 「うん。だってシュラ、スペイン人じゃん」 「そんなことまで……」 「祝うなら徹底的に、がモットーなのさっ」 グッと親指を立ててウィンクをしたに、シュラはもはや申し訳ないという言葉は引っ込めることに決めた。 きっとは、掛け値なく本気で、純粋に誕生日を祝っているのだ。メリットや見返りを期待しているわけではない。ならば、返すのは謝罪や遠慮の言葉ではなく、感謝の言葉だろう。 「というわけで、シュラ」 改めてありがとうと告げようと顔を上げると、これまた満面の笑みのがいた。 「今夜は巨蟹宮集合で」 「……何故…」 「だから云ったでしょ。祝うなら徹底的にがモットーだって」 「あ、ああ」 「私が腕によりをかけてスペイン料理のフルコース用意してるから楽しみにしてて!」 昨日から張り切って仕込みしてたんだから、とは云うが、シュラは言葉を失っていた。プレゼントだけでも十分驚いていて嬉しいと云うのに、この上祖国の料理でもてなしてくれるとは。 もう驚きつくしたかと思っていたのに、まだ足りなかったらしい。 「ちなみに何故巨蟹宮なのかというと、デスマスク不在だから思いっきり散らかしてやれるという軽い嫌がらせと、あいつがこっそり隠してるシェリーが目当てだからです☆」 「…………」 かなりいい笑顔である。少しだけデスマスクが気の毒になった。 「メニューはまだ秘密だけど、絶対満足するはず!」 「、」 「じゃ、仕事終わったら巨蟹宮ね!」 準備があるからと、嵐のようにやってきたは嵐のように去って行った。 再びありがとうを伝え損ねたシュラは、伸ばしたままやり場のなくなった手をしばらくふらつかせた後、疲れたように執務椅子に寄りかかった。 正直慣れないこと尽くめで反応に困ってしまったが、の気持ちがとても嬉しかった。柄にもなく顔の筋肉が緩んでしまうのも仕方ないだろう。 思えば、が聖域に現れてから、自分はずいぶんと変わった。いや、自分だけではない。に関わった人間誰もが変ったのだろう。そしてきっと、聖域自体、変ったのだ。 自分たちの過ちを、残らず許すと云ってくれた。 誰かが許さなくても私は許すから、と笑ったに、女神によって再び命を得た自分たちはこれ以上ないほど救われていた。 大丈夫だと、何の根拠もなく告げる優しさと、泣きそうに浮かべたの笑顔があったから、これから先二度と同じ過ちは繰り返すまいと、今度こそ女神の愛する地上のために、正義のために闘おうと誓えた。 がいなければ、今こうしてのんびりと穏やかに過ごす自分はいないのだ。 シュラは、数年前と比べてほとんどと云っていいほど変った自分が嫌いではなかった。 そこまで考え、やはり柄ではないな、とシュラは自嘲した。 後悔するのは逃げだとは云い切った。だから、そんなものはしないように生きろと鉄拳と共に告げられた。 ならば、その通りだ。 過去の過ちを悔いて生きるより、これから先の平和を願って生きるべきなのだ。 大きく息をついたシュラは、少しばかりオリオールを眺めて和んだあと、再び箱に仕舞って冷蔵庫に入れておいた。どうせ夕食ではいつものメンバーが集まるのだから、その時に持っていくことにした。 そして、残業で遅れますなどと云っての期限を損ねるのは得策ではないので、なんとか今日の分の仕事は終わらせてしまうべく、再び執務に戻ろうと、避けていた書類と羽ぺンを手にした。 その時。 「忘れてた!!!!」 「!!?」 バーン、と勢いよく執務室の扉を開けたのは、またもやだった。 ケーキに気を取られての小宇宙にまったく気付かなかったシュラは思いっきりぎょっとした。 しかしそんなシュラの様子には気付かないは、扉から大声で叫ぶ。 「誕生日、おめでとう!」 それだけを告げたは、またばたばたと走り去ってしまった。まさに嵐である。 立て続けに起こる出来事にもはや感覚が麻痺し始めていシュラは、茫然としたまま数秒固まり、それから彼にしては本当に珍しく、声をあげて笑った。 その夜、昼間の言葉通り素晴らしいスペイン料理のフルコースと、更にオリオールのチョコレートケーキだけではなくコレクション36、コレクション日本まで用意していたを、感激のあまり抱き締めたシュラがモンゴリアンチョップを喰らったのはまた別の話である。 ---------------------- というわけで今日1月12日は山羊座カプリコーンのシュラの誕生日です!おめでとう! 正直途中、『私なんでこんなに必死こいてスペインのこと調べたりチョコ調べたりワイン探したりしてるんだろう』と疑問に思ったけど、楽しかった!しかもこんなに短期間に話書き上げたのも久しぶりです(大問題) オリオールの本店が完全予約制というのは本当ですが、果たしてそこまで予約待ちがあるのかどうかは疑問です笑 何せ本店はバルセロナなものでね!知らないというのがオチなのですが。でもあげたかったの!簡単に買えるやつじゃなくて、ちゃんとスペインでおいしいのをあげたかったの! でも幼少期にすでに聖闘士修行をしていたやつらが祖国に愛着があるかどうかは疑問ではありますが…まぁシュラは修行地もスペインだから、ほかのやつらよりは愛着あるだろう、と。 悪人面でも、無愛想でも、生真面目で花とワインと甘いものが大好きなシュラが私は大好きです!戸谷さんリスペクト(云わんでええ) お誕生日おめでとうございます!大好き!! |