いつものようにカイーナにあるラダマンティス様の執務室に行くと、珍しい人がいた。
応接用のソファに腰掛け、執務机で書き物をしているラダマンティス様と談笑しているのは、確か。

「あ、こんにちは、バレンタイン!」






甘い香りと贈り物





「失礼します、…こんにちは」

こちらに気付き片手をあげたラダマンティス様に頭を下げ、改めて彼女、さんに会釈する。
努めて顔には出さなかったが、名前を呼ばれて内心驚いた。
三巨頭の方々やパンドラ様のように頻繁に顔を合わせるわけでもなく、親しく言葉を交わしたこともないはずなのに、彼女が俺の名前を知っていたことが意外だったのだ。

「えへへ、お邪魔してまーす」

「心にもないことを云うな」

「失礼な!」

「………」

紅茶のカップを手に持ちながら彼女は笑い、ラダマンティス様は呆れたように云った。俺は何と返事をすればいいのかわからず、苦笑いのままとりあえず提出すべき書類を執務机まで持っていった。
どうにもこの少女とは関わりづらい。立場的な問題もあるが、冥界にはいなかったタイプの人なので、いまいちどう接したらいいのかわからないのだ。若干ミーノス様と似てるような気がするが、考えてみればあの人のことも得意ではない。

「先日の書類を持って参りました。……後のほうがよろしいですか?」

ちらりと背後で茶菓子を摘まむ彼女に視線を送り、ラダマンティス様に伺いを立てる。特に用事があるようには見えないが、一応礼儀というやつだ。
するとラダマンティス様は首を横に振った。

「いや、大丈夫だ。貰おう」

「はい。では残りのものはシルフィードが担当しておりますので、恐らく昼前には」

「わかった」

「それからこちらですが……」

数枚の書類を手渡し、訂正とサインの確認をして軽い打ち合わせをする。
いつも通りの、普通の業務のやり取りだ。
が、非常に落ち着かなかった。
背中に、ひしひしと視線が。
誰のものかと考えるまでもなく、遊びに来たのか本当に邪魔しに来たのかわからない彼女のものだ。
一体何が面白いのか、単なる仕事の、しかも彼女にはわからないであろう話題を、まるでテレビドラマにでも観入るように聞いている。放っておかれるのが嫌なのか。
謎だ。
本当にこの人はよくわからない。
そんな思いが顔に出てしまったのか、ふと顔を上げ俺の表情を見たラダマンティス様が苦笑して云った。

、そう睨んでくれるな。バレンタインが怯える」

「あ、ごめんごめん」

別に睨んでるわけじゃないのよ、と笑い、彼女は紅茶を一口含んだ。その姿はお世辞抜きに美麗で優雅で、さながらどこかの貴族のようだと思った。この人は本当に、口さえ開かなければ神々しい。
怯えていたわけではなかったが、まぁ心境としては似たようなものだったろう。複雑だったのは間違いなかったので、訂正はせずに目を泳がせた。
残りの紅茶もグイッと飲み干したらしい彼女は、ソファの背もたれに体重を預けながら楽しそうに笑う。

「バレンタインは、ラダマンティスが好きなんだねぇ」

どういう意味だ。
何を突然云い出すのかと、思わず眉間に皺が寄る。
だいたい、今のほんの少しの会話だけで自分の主に対する想いを測られたのかと思うと、酷く心外だった。
確かに俺はラダマンティス様が、勿論主として好きだ。生涯仕えるのはこの方だけだと、この方以外の誰かに仕えることなどありえないと思っている。
ハーデス様やパンドラ様、他の三巨頭にしても勿論素晴らしい方であり尊敬、畏敬、崇拝すべき存在であることに間違いはない。しかし、俺の主はラダマンティス様だ。
この雄々しく鋭く、時に獰猛でありながら穏やかな翼を持つ、この方ただ一人が俺の主なのだ。
ラダマンティス様のためなら命は惜しくないし、今すぐ死ねと云われれば死ぬ覚悟もある。きっとこの人は、そんなことは云わないのだろうけれど。
この想いは一朝一夕で築いたものではない。ラダマンティス様の下で働くことになった瞬間から今この瞬間まで、俺の生きる時間すべてを掛けて築き上げた想いなのだ。
もはや好きだとかなんだとか、そういった俗な考えはとっくに超越してしまっている。
それを、彼女は。
たった少しの会話で、『好きなんだね』の一言でまとめてくれた。
面白いはずがなかった。

「そんなものは当然です」

知らず、答える声に棘が立ってしまっても仕方ないだろう。
ここにクイーンやシルフィードたちがいればうまくいなしてくれたのだろうが、残念ながら彼らはまだ来ていない。
よかったのか悪かったのか判断しづらいが、ともかく今は、俺を諫めてくれる誰かはいなかった。

「俺はこの方の部下です。好いていて当然でしょう」

「……バレンタイン?」

「何か」

沸々と自分の腹の奥から沸き上がる感情が不快で、思わずラダマンティス様への返事すら素っ気ないものになってしまい、ハッとしたがもう取り消せない。やってしまった。
気まずくなって視線を反らし、どうしたものかと考えあぐねていると、笑い声。彼女のものである。

「ふふ」

「……何がおかしいんです」

「ラダマンティスは幸せだね」

あなたみたいな部下を持って、と云う彼女の思考が全く読めない。苛立ちは増すばかりだった。

「……失礼します」

「おい、バレンタイン、」

これ以上はとても耐えられそうになかった。
無礼は承知の上で、残りの書類をすべてラダマンティス様の机に置き踵を返す。後で叱られるかもしれないが、ともかく今はこの場から――彼女の前から――立ち去りたかった。
彼女のほうは一切見ないよう努めたが、空気が震えているのがわかった。まだ笑っているのだろう。不愉快だった。

「バレンタイン」

部屋を出る直後、背中に彼女声がぶつかった。一応足は止めたが、振り返りはしない。また笑っていたりしたら、今度こそ何をするかわからなかった。

「何か」

「今日は何の日?」

「……はぁ?」

今度は一体何を云われるのかと若干身構えていたため、予想外の問いに拍子抜けして思わず振り返ってしまった。
何なのだ、彼女は本当に。
読めない。読めなさすぎて、いっそ不気味だ。
先ほどまでの苛立ちや不快感を軽く凌駕する程度には、このとき俺は満面に浮かべられた彼女の笑顔に気圧されていた。
彼女は相変わらずの笑顔である。もう不愉快ではないが、何か底知れないものを感じて身体が強張る。
しかし彼女はそんなこちらの心境など知る由もなく、また知っていても気にするかどうかは微妙だが、笑顔を浮かべたまま、とことことこちらに近付いて来た。
その笑顔に妙な迫力を感じ、後退りたかったのだが、まだ開いていなかった扉に阻まれ叶わない。
頬がひきつる。ゴクリと喉がなる。口はからからだった。閉じられた扉にぶつかった背に、冷たい汗が流れた。
彼女は俺との距離が、もう一歩進めばゼロになるほどで漸く足を止めた。
そして、更ににっこりと笑顔を深めて。

「バレンタイン、誕生日おめでとう!」

思考が停止した。
誕生日。
いつが?
誰の?

「……は?」

「今日は2月14日!聖バレンタイン・デー!且つ、あなたの誕生日、でしょ?」

云われて執務室に貼られているシンプルなカレンダーに目をやり、日付を確認する。
今日は確かに2月14日だ。カレンダーにも小さな赤字で聖バレンタイン・デーとも記載されている。
そして確かに今日は俺の誕生日だ。2月14日。自分の誕生日がわからないほど耄碌した覚えはない。
が。

「……そうだった…」

忘れていた。
今日が2月14日であることはわかっていた。いくつかの書類の提出期限が今日になっていたし、昨日の時点では誕生日もバレンタイン・デーも忘れていなかった。
しかし、今朝になり仕事を始めた途端、そんなものは頭からさっぱりなくなっていたのだ。
だが、わからない。
今日が俺の誕生日でバレンタイン・デーであることはわかったが、彼女が満面の笑みでそれを告げた意味がわからなかった。
友人でもなければ恋仲でもなく、ましてや話したことも殆どないような相手の誕生日を祝うほど、彼女は暇なのか物好きなのか。

「何その顔?嬉しくないの?」

「いえ……」

「あのな。いきなり親しくもない相手に誕生日を祝われて、なんの疑問も持たずに喜ぶやつがいるか?」

困惑して言葉を失っていた俺を、軽く頬を膨らませて睨む彼女に待ったをかけてくださったのは、半笑いでこめかみを押さえたラダマンティス様だ。さすがにわかっていてくださる。

「そう?」

「そうだ」

なぁ、と問われ、思わず首を縦に振る。
すると漸く納得したらしい彼女は、くるりと反転して再びソファに戻ると、何やらソファの後ろに置いていた荷物を持ち上げた。

「今日はね、バレンタイン・デーだからみんなにチョコを持ってきてたの」

バレンタイン・デーに何故チョコ。
軽く首を傾げると、日本ではそういうものらしい、とラダマンティス様が簡単に説明してくださった。なるほど。

「で、ラダマンティスに渡しに来たら、アイアコスもミーノスも今出てるっていうから、ここでお茶してたんだけど」

「勝手にな」

「いいじゃん」

自由人である。
とにかく、と前置き、彼女はごそごそとその荷物を漁る。
取り出したのは、手のひらサイズの箱だった。

「ラダマンティスと色々話してたら、今日がバレンタインの誕生日だって話になってね。バレンタインがバレンタイン・デーに生まれるってなんか可愛いねとか云ってて」

「お前が勝手にな」

「……さっきから茶々が冷たい」

「気のせいだ」

しれっと云うラダマンティス様は、最早彼女は見ていなかった。故に半眼で睨みつけられていても気付かず、どこ吹く風で書類に目を通していた。

「…いいけどさ……。それで、私いつもこっちに遊びに来て迷惑掛けてるから、これは良い機会だと!」

「迷惑掛けている自覚はあったのか…」

「ラダ、うるさい」

ぼそりと呟いたラダマンティス様を振り返り、ビシリと指を差す。どうやら図星だったらしいようで、怒るに怒れないような複雑な表情をしている。
ひとつわざとらしい咳払いをしてから、彼女はその箱を手にしたまま改めて俺に近付いてきた。
自然と背筋が伸びてしまうのは、本能が彼女を敬えと訴えてきているからだ。いやさすがにラダマンティス様以上には敬えないのだが。

「私がラダマンティスに構ってもらってる間の仕事、殆どバレンタインが代わってくれてるんだってね。ありがとう、迷惑掛けてごめんね?」

「いえ…好きでやってることですし、仕事ですから」

「それでも。邪険にされても文句云えないのに、私がここに来るとそっけないけどいつも丁寧に対応してくれるでしょ?それね、すっごく嬉しいのよ」

「……………」

「あなたにそんなつもりがなくても、私は嬉しいの。ラダマンティスの話聞いてても、一生懸命で真面目でよく働いてるって云うし、私、あなたみたいな人大好き!」

ぎょっとした。
彼女が比較的誰にでも友好的で好意的で、ラダマンティス様やアイアコス様にミーノス様、果てはシルフィードやクイーン相手にも『好き』という単語を使っているのは知っていたが、よもや自分にまでそんなことを云われるとは思いもしなかった。
しかも、特に意識していたわけでもないが自分の行動をそんな風に思われていたのかと思うとどこかくすぐったくて恥ずかしいような気分だ。

「今日も飛び込みで来ちゃったし、そもそも今日が誕生日ってさっきまで知らなかったし、会えなかったら置いてっちゃおうと思ってたんだけど、会えてよかったわー!」

そして彼女は左手で俺の右手を掴み、そこに箱を乗せた。

「知ってたらもっとちゃんとしたの持ってきたんだけど」

綺麗にラッピングはされているが、既製品ではないようだ。恐らく彼女が自分で施したのだろう。
と云うことは。

「…手作り……?」

「うん、そう。私料理は得意なんだよ!」

甘いものは大嫌いだけどね、と付け足されたので一瞬固まってしまったのだが、嫌いなものを作るのは下手だということはないだろう。
しっかりと手に持たされ、俺はこれから先どうしたらいいのかわからなかった。
こんな風に誰かに物をもらうなんて、これまでなかったのだ。
ありがとうございますと云うべきなのだろうが、口がカラカラしたままでうまくいかない。
しかし、ハッとした。

「ら、ラダマンティス様は…」

「あ、そう云うと思って、ちゃんと別物を用意しました!」

ラダはトリュフだけど、こっちは生チョコ。
お見通しのようである。
まさかラダマンティス様はよりいいものをもらうわけにはいかない。そこは何としても譲れない。気分的な問題だが、まったく違うものならば問題ない。ないったらない。
が、やはりどうしたらいいのかわからない。
固まったままでいると、奥の執務室でラダマンティス様が笑いを堪えているのが見えた。

「ラダマンティス様……」

思わず恨めしい声が出てしまう。あの顔は、困っている俺を見て面白がっている顔だ。聖戦後、復活してからは、以前はなかったこういった表情をするようになった。誰の影響かは考えるまでもないが、こちらとしては嬉しいやら何やら、微妙な心境だ。

「すまん」

「いえ……」

「バレンタイン」

釈然としないまま返事をすれば、頭ひとつ分低い場所から、名前を呼ばれる。
黒の髪と金の瞳を持つ少女が、先ほどまでとは違う笑顔を浮かべて俺を見ていた。

「誕生日、おめでとう」

ハーデス様の瞳よりも深く果てしない漆黒の糸。
世界を覆い尽くす太陽よりも輝かしい双眸。
正反対の二色を調和する、見るものすべてに平和を約束してくれそうな、笑顔。
言動は意味不明だったり傍迷惑だったりするが、考えてみれば俺はこの人を嫌いではなかった。先ほど抱いた苛立ちを否定はしないが、それでも嫌いなのかと云われればそれは違う。だからと云って好きなのかと訊かれれば困ってしまうが、少なくとも、嫌いではない。
これまでは挨拶やほんの業務の会話くらいしかしたことがなかったので、彼女と云う人となりを知ることはなかった。そのあたり、シルフィードやクイーンはうまくやっていたのだろうが、自慢ではないが俺は器用なほうではない。
けれど、もしかしたらこれからは。

他愛の話くらい、出来るかもしれない。

「―――ありがとうございます」

自然と、感謝の言葉と、笑顔が浮かんだ。










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というわけで2月14日、天哭星ハーピー・バレンタイン、誕生日おめでとう!

ラダ大好き過ぎていろいろやらかしちゃうあなたが大好きです!ていうか初登場がバレンタイン近くの本誌で名前がバレンタインって、『お前名前考えんのめんどかったんだろ』と作者に云ってやりたくなるけど←、それでもあなたが大好き!

バレは、シルフィードやクイーンより社交性がないと思います。あの二人は結構そつなく誰とでも笑顔で接して仲良くなってそう。ゴードンは、ちょっと時間を置いてから二人つながりで仲良くなるとかそんな。見た目がごつい人は損だ…でも好きだよゴードンも!笑


バレンタイン、誕生日、おめでとうございました!大好き!