初めて会ったはずのその人は、酷く懐かしい笑顔を浮かべていた。






人魚の唄





その日宿泊していたホテルには、宿泊者専用のビーチがついていた。
昼間は遊んでいる時間などなかったし、あまりはしゃぎたい気分でもなかったので行かなかったが、夜になり、テラスからぼんやり海を見て何となく足を運んでみる気になった。ほんの気まぐれだった。
同行すると申し出たソレントをやんわり断り、パンツにシャツに厚手のセーターというラフな格好で外に出た。
夜のビーチには人気など全くなく、波の音だけが聴こえてくる。
昼間とは違い太陽の光を受けていない海は、どこまでも深い藍色をしていた。
まるで何もかもを飲み込んで、その大きな腹の底に沈めてしまいそうな、恐ろしいまでの深さ。
考え、寒くもないのに身震いした。
数ヶ月前に世界を襲った、原因不明の水害。
何故か自分が償わなければならないと思い、財産全てをかけたのは正しかったと思うが、何故自分がそんな衝動に駆られたのかは未だにわからない。
わからないが、これでいいと思う。
きっとそうすることが正しいのだと、死んだ父も納得してくれるだろうから。
夜の海をぼんやり眺めながらしばらく立ち尽くしていた。特にすることもなかったが、なんだかこうしているだけで心が洗われる気がして、大きく深呼吸を繰り返してみた。
どれほど時間が過ぎたかわからなかったが、そう多くの時間でもなかったと思う。

―――パシャッ

「っ?」

水音がした。
辺りを見渡せば、先程まで誰もいなかった――はず――のビーチに、1人分の影を見つけた。
しかも、そう遠くもない場所に。
驚いてその人影を見つめていると、視線に気付いたらしいその人物が、近付いてくる。
月明かりに照らされ、近くなって顔が見えた。
遠目でも恐らく女性であろうとは思っていたが、そしてその予想に間違いはなかったのだが、予想以上に美しい少女だった。
ブラウスの上にカーディガン、上着にショールを羽織り、膝丈のフレアスカート。脱いだミュールを片手に一足ずつ持ち、素足は脛の真ん中辺りまで水に付けたまま、少女はにっこりと笑った。

「こんばんは」

「・・・こんばんは」

思わず返したが、明らかに不審だ。
ここは宿泊者専用のビーチだし、あのホテルはそれなりの値段を張る。海商王とまで云われたソロ家当主である自分ならまだしも――断っておくが自慢ではない――、こんな少女が簡単に泊まれる場所ではないのだ。

「ここに泊まってるの?」

首を傾げ、少女は問う。
一瞬悩んだが、正直に頷いた。

「ええ、今日の昼から。・・・貴女も?」

「私?私は違うよぉ」

きょとんと目を瞬かせ、こんなところには泊まれないよ、と笑った。
ならば何故、ホテル専用のビーチにいるのか。
ますますわからない。
すると、ホテルとは反対側のほう、個人の別荘が建ち並ぶほうを指差しながら少女は云った。

「知り合いがあっちに別荘持っててね、ちょっと遊びに来てたの」

「あそこの土地に?」

「そう」

簡単に頷いてくれるが、この辺りの別荘は富裕層しか手が出ない金額で売り出されている上に、審査も厳しいことで有名だ。つまり折り紙つきの大富豪にしか購入出来ない一等地なのだ。
とてもこの少女にはそんな知り合いがいるようには見えない。ついでにこのホテルのビーチにいる説明にもなってないが、その知り合いがホテル経営者と懇意にあるのだろうと見当をつけた。
少女は確かに不審だったが、不審ではあってもこちらに危害を加えてこようとするわけでもないし、危険な感じもしない。
お人好しすぎるとソレントには云われるが、実際被害がないのだからいいのだ。
それに何となく、この少女のことは気に入っていた。
たった数分前に出会い、ほんの少し言葉を交わしただけではあるが、どこか懐かしい感じさえした。

「こんな時間に女性が一人で出歩くのは危険では?」

「大丈夫。私は強いから」

「おや」

えへんと胸を張る少女に呆れなかったと云えば嘘になる。
何か武道でも嗜んでいるのかもしれないが、力を過信すると痛い目をみる。こんな見るからに華奢な少女では大の男には筋力で負けているだろうし、第一相手が一人とも素手とも限らないというのに。
しかし少女は余程自信があるのか、こちらの忠告をまったく気にせず波に足を遊ばせていた。帰るのは少女を送ってからだ、と密かに決める。
波は少女の足にぶつかり、やがて海に戻る。その繰り返しだ。
少女の黒く長い髪は流しっぱなしにされ、潮風に靡いて美しい。小さめの顔はすっとした輪郭で、眼、鼻、唇、眉毛に至るまで文句のつけようのないくらい完璧に整っている。暗いためよくは見えないが、きっと瞳も綺麗に輝いているのだろう。
美しい女性ならば腐るほど見てきたが、この少女は特別だと思った。
かつて求婚した城戸沙織嬢も美しい。
けれど、彼女とは比べようもないくらい、目の前の少女は美しいのだ。
月明かりに輝く姿が、まるで女神のようだった。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、手を伸ばせば遠ざかってしまうような、そんな感覚。
眼を、奪われた。

「・・・―――♪――」

ハッとした。
少女が、海の遠く水平線を見ながら、唄を口ずさんでいた。
鈴の鳴るような、涼やかで心地よい声が耳を擽る。

「――♪・・・―――♪♪―」

何の唄かはわからない。
まったく知らない、聴いたこともない、異国の言葉の唄。
しかし、心に響く唄だった。

「―――♪―・・・」

唄い終わり、くるりとこちらを向いた少女はぺこりと頭を下げた。ご丁寧にスカートの裾をつまんで。
咄嗟に、拍手を送っていた。

「へへ、お粗末さまでした」

「素晴らしい唄でした」

「ありがとう!」

微笑んで云えば、少女は破顔した。
思わず胸が高鳴ったが、それを気取られないよう努めながら問う。

「何の唄なのですか?」

またじゃぶじゃぶと水遊びを始めていた少女は、一度ぴたりと動きを止め、それから大きく水を海の方に蹴り上げた。

「子守唄」

蹴り上げられた水は、飛沫を散らしながら、弧を描いて海に還っていった。

「昔、母さんが私に唄ってくれたの」

「………」

「『可愛い私の子、どうか泣かないで。どうか笑っていて』」

何を云っているのかと思ったが、彼女が先程の子守唄の歌詞を詠み上げていることに気付いた。

「『ずっと傍に立っていることは出来ないけれど、いつでもあなたを見護っているから。涙ではなく笑顔を溢して、どうかどうか幸せに。私の可愛い子、私のたった一つのお願いよ。たくさん笑って疲れたら、さあ今は静かに私の胸でお眠りなさい』」

祝詞のように。
儀式のように。
唄ではなく、単に歌詞を詠んでいるだけなのに、その言葉一つひとつに心を掴まれた気がした。

「綺麗な」

呟きは、知らずに溢れ落ちた。

「綺麗な、唄ですね」

本心からそう思った。
母の愛情が、切なくなるほど伝わってきた。
物心ついたころにはすでに母のいなかった自分には、母の愛情はわからない。
けれど、きっととても暖かくて優しくて、心地よいものなのだろうと、思った。
そしてその予想は、間違っていないのだ。

「うん」

少女は笑った。
嬉しそうに。

「綺麗だよね」

―――貴女も、と。
思わず飛び出しかけた言葉を何とか飲み込み、小さく息をつく。心臓に悪い少女だ。
たったの十分足らずしか時間を共有していないというのに、彼女の言動の一つひとつに感情を揺さぶられている気がしてならない。
こんな姿は他人に晒せないなと思いながら、改めて少女を見、ふと気付く。
彼女の名前を聞いていない。

「もし、よろしければ・・・・・・」

「ジュリアン」

問うて、口にした、名前は。
それが彼女の名前である可能性は低い。
何故ならたった今彼女が口にした名前は、まぎれもなく自分のものだったから。
驚いて言葉を失っていると、少女は云った。


「誕生日、おめでとう」


そして、消えた。
まるで泡となった人魚姫のように。
いなくなったのではなく、消えてしまった。

―――なんだったのだろう。

もしかして、自分は夢でも見ていたのだろうか。
意識ははっきりとしていたつもりだったが、余程疲れていたのかもしれない。
とにかくホテルへ帰ろうと、足は知らずにホテルへ向かっていた。

「おかえりなさい、ジュリアン様」

部屋ではソレントがお茶を用意して待っていた。先に寝てても構わないのに、いつも彼は自分を待っている。
何故そうまでするのかと以前問うてみたら、自信満々に、

『当然のことだからです』

と云われて困ったことを思い出した。だからその意味がわからないのだが、今はもう考えるのは諦めた。

「ああ、ただいま」

「遅かったですね。何かありましたか?」

熱いコーヒーを淹れながらの問いに、少し考えた。
まず、遅かったという言葉に対して。時計を見れば、部屋を出てから既に1時間以上経過していたらしい。30分くらいだろうと思っていたのでびっくりした。
そして、何かあったのか、という言葉に対して。
何か、あった。
しかしあの時間をなんと表現したらいいかわからず、答えに窮した。
ほんの少しの、出逢い。
名前も知らず、唄だけを聴き、忽然と姿を消した美しい少女。
一体何者だったのだろうか。
不思議な出逢いだった。
しかし、痛烈に記憶に残る出逢いだった。
ああ、もしかしたら彼女は。

「ソレント」

「はい?」

「人魚に逢いました」

「・・・・・・はい?」

お伽噺の人魚姫は声を失い泡となったが、最近の人魚姫は、美しい声のまま、泡となるらしい。
眼に焼き付いた笑顔。
耳に残る歌声。
何より、心に居座る、あの唄。
首を傾げるソレントになんでもないよと笑い、コーヒーをもらう。
ああ、今日は最高な誕生日だ。










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とゆうわけでジュリアン様、お誕生日おめでとうございます!

間に合った。間に合ったよ…!←
名前がお互い殆ど出てこなかったな…残念\(^O^)/←

子守唄の歌詞は適当というかなんとゆうか、私が作ったので実在はしません。あ、そんな勘違いしないよね^^←
しかし子守唄に適した歌詞なのか…自分で首を傾げてしまいます(笑)

今回は、ポセイドンというよりもジュリアン様メインで。
ポセイドンが目覚めてるときには稜佳に会ってるけど、ジュリアンとしては一度も会っていないはずなので。

初対面の女に運命感じるとか結婚しろとか云っちゃう世間知らずな坊ちゃんジュリアン様も、ポセ様降臨中に見せるあの超悪い顔も大好きです!!一番好きなのはもちろん声です←

ジュリアン様、お誕生日おめでとうございます!
大好き!!


20100321