舞い降りたわけでもない、その天女は突如として現れた。 黒い髪。 黒い瞳。 白い肌。 桜色の唇。 整った輪郭。 スッとした鼻立ち。 その場にいた人間すべてが息を飲むほど、調和した美しさを持った少女だった。 そう。 「うわっうわぁぁぁッ、うええええええええええ!!!!??」 ―――見た目は、天女の如く美しさだった。 そう、見た目、は。 |
vanitas
嵐の人 |
人間、確かに自分の許容範囲を超えた驚きに遭遇すると声が出なくなる。咄嗟に悲鳴が出るときと云うのは、案外と余裕がある場合だ。 そしてこのとき、少女は声を失っていた。 ぽかんと口を開けて、大きな瞳を限界まで見開いて、固まっていた。 が。 徐々に異常事態であることを意識し始めて。 徐々に整った顔を歪ませて。 「うわあぁぁあぁぁぁああぁッッ!!!!!!????」 ―――叫んだ。 「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!!!!!???」 なんとも色気のない叫びであるが、少女のお陰で固まっていたその場の空気が漸く動き始めた。 素早く行動を起こしたのは山羊座カプリコーンのシュラだった。ほとんど反射的に走り少女の背に回り、その聖剣と名高い手刀を、細く白い少女の首に突き付けた。 ピタリ、と何かを察した少女は黙る。 「何者だ」 問うたのは教皇だった。 真っ赤な絨毯の直線上、少し高まった場所から。 さすがと云うべきか当然と云うべきか、他の者が少なからず動揺している中で、教皇の声には揺らぎなどは感じられなかった。 ただ淡々と、問う。 「どうやってここへ来たのだ。ここは、許された者しか侵入は不可能な神聖な場所。神話の時代より女神の加護を受ける聖地だ」 「・・・・・・・・・」 「聖域への無断侵入者がどうなるか、わかっているのか」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 少女は何も云わない。 シュラに手刀を当てられたまま身動き一つせず、ポカンと教皇を見つめている。頭の周りにハテナマークがたくさん飛んでいるように見えたのは、きっと気のせいではない。 「答えろ」 だんまりでいる少女にしびれを切らしたシュラが軽く手刀を首に押しあてながら促す。その気になればすぐにでもこんなか弱い首は切り落とせるのだが、まだ教皇の追及の途中だ。殺すのはそのあとでも構わない。 「おい―――・・・」 「・・・そんなの」 尚も何も云わずにいた少女に再度催促しようとして、少女の声に遮られた。 手刀に構わず軽く俯いて呟く少女から並々ならぬ気配を感じ、一瞬シュラは驚いた。 そして。 「そんなのこっちが知りたいわよ!!!!!!」 怒鳴りつけた。 実は死と隣り合わせにいる今の自分の状況がわかっているのかいないのか――いや、いないのだろう――、細い肩を震わせて、腹の底から声を張り上げた。 「こっちは学校帰りで今から家に帰るところだったのよ!!?それが何、風が吹いて顔あげたら目の前に金ピカ鎧来た人がいっぱいって、どんなホラーよ!!?それともドッキリなの!!?なんか性質の悪い悪戯なの!!!??」 企画者誰よ!!? と少女は更に吠えた。 少女の見た目は東洋人だ。もしかしたら言葉が通じていないのかもしれないと懸念したのだが、どうやらその心配は杞憂だったらしい。 代わりに、言葉はわかっても話の意味がわからなかった。ドッキリってなんだろう。 そんなこちらの心境など知る由もない少女は、少女の叫びにぽかんとしてしまっていたシュラの手刀を振りほどいた。 ぎょっとしたのは周りの人間だ。 斬れないものなど何もないと名高い、シュラの手刀である。それを素手で、思い切り振りほどくとは正気の沙汰とは思えない。 「女神だとか聖域だとか知らないけどね、私は帰るわよ!!明日からテストなんだから、こんなところで油売ってる暇なんてないの!!!」 云って彼女は本当に踵を返した。 が、それを黙って見過ごすほど馬鹿ではない。 足元に放置されていた荷物を肩に背負った少女の、逆の肩を掴んで止まらせる。 「待て」 「嫌だってば、私は帰ってテスト勉強するの!!!暇じゃないの!!!!」 酷く苛立った様子で振り返り、その黒い双眸でシュラを睨みつける。恐ろしくなどない。ないが、何か只ならぬ気迫を感じた。 小宇宙ではない。少女から感じる小宇宙は本当に微弱で、聖域の雑兵よりもずっと弱い。 ただ、少女から発せられる気迫には無視できない力があった。その正体はわからないが、シュラは言葉を失ってしまった。 すると、次の言葉を頭の中から探していたシュラの後ろから飄々とした声がした。 先ほどまでおかしそうにこちらを眺めていた男。銀色の髪に紅の眼を持つ、蟹座キャンサーのデスマスクだった。 「お前さぁ、テストよか今の心配したほうがいいんじゃねぇの?」 口調こそ軽いものの、デスマスクの言葉の裏に隠れた意味をシュラは理解していた。 そう、本来なら少女には抵抗も反論も認められはしない。問われたことを正直に答えるしかないはずなのだ。 それを理解せず知らずに騒いで喚いて自分の主張ばかりに声を張り上げて、いつ殺されても文句は云えない状況なのだと、つまりはそういうことだった。 デスマスクの云いたいことは彼女には伝わらなかったのか、また少女は叫んだ。 「馬鹿なこと云わないで!!!」 「?」 「あんたたちにとってはどうでもいいかもしれないけど、私にとっては大切なことなんだから・・・ッ」 「ああ?」 わずかに、声が震えていた。 強気そうに叫んだ次の呟きは、真っ直ぐだが、どこか壊れそうなくらいか細かった。 「勉強しなくちゃ、良い成績でいなきゃ・・・私は、自慢の娘で、自慢の姉なんだから」 まるで暗示だった。 自分に云い聞かせるように、呟く。 良い子でいなければならないと、少女は云う。それとテストがどう繋がるのか、そもそもここにいる男たちは生まれてこの方修行にばかり明け暮れていたので、テストがそこまで大切なものだと思えもしなかったのだが、少なくとも少女の様子から、彼女にとっては非常に重要であることは察した。 最初に問うてからはシュラとデスマスクにまかせっきりにして事の動向を見守っていた教皇は、ここにきて漸く口を開いた。 「少女よ」 「な、何っ?」 「今一度問う。どこから来た?」 「・・・・・・・・・」 少女は黙って教皇を見た。しかし先ほどまでのように険を含んだ眼ではなく、幾分冷静になっているらしい。 教皇の声にも然程強制力がなくなったからかもしれないが、少女の瞳は不安げに揺れていた。 「すまぬが話を聞かぬことにはこのまま帰すわけにもいかぬ。少しでよい。付き合ってはくれぬか」 「・・・・・・・・・・・・」 漸く少女にも、少しは話をしなければならないのだとわかってきたらしい。確かに自分も驚いているし混乱もしたが、それは相手にしても同じなのだ。自分ばかりが主張をするのは間違っている。 考え、数度大きく深呼吸をしてから少女はたどたどしく話した。 「・・・どこから来たって云われても・・・わかんないけど。でも、私が住んでるのは日本で、東京よ」 ここも東京なんじゃないの?と問われて、教皇は考えた。 彼女から感じる微弱な小宇宙から、何か違和感があったのだ。 そもそも、この世界の人間はなんであろうとどんな方法を用いようとも、聖域へ突然姿を現すことなど出来ない。 もしかしたら、という、ほんの小さな可能性が頭を掠め、しかしまだそれは云うタイミングではない。ゆっくりと教皇は口を開いた。 「ここはギリシャ。聖域だ」 「・・・は?」 ぽかん、と口を開いて固まるのは一体何度目だろう。この短時間で、しばらく分やった気がする。 首を傾げた少女に、教皇はもう一度繰り返した。 「ギリシャだ」 「・・・嘘!」 「嘘じゃねぇよ」 今度はデスマスクだった。面倒くさそうに、何を云う、と適当に答える。 しかし少女は、そんなデスマスクを振り返り、云う。 「嘘!!だって日本からギリシャなんて飛行機で12時間はかかるのよ!!?あの風が吹いた一瞬でこんなところまで来られるはずないじゃない!!!」 「しかし、申し訳ないが真実だ」 「変な冗談やめてよね!?だいたい、ここがギリシャなら言葉だって―――・・・」 「しゃべってるだろう」 「―――え・・・」 シュラに指摘され、はた、と。 自分は今何語を話しているのかと。 あまりにも自然に会話をしていたから、気にも留めていなかった。 少女は、ギリシャ語で話していたのだ。 「わ、私・・・?」 「流暢なギリシャ語だ」 意識もせずに会話を成立させていたと云うことは、余程その言語に精通している証拠だ。 ここまで立派に話しておきながら何を、とシュラは首を傾げたのだが、少女は目に見えて狼狽え始めた。 「で、でも私ギリシャ語なんて習ったことない!英語ならちょっとは話せるけど、ギリシャ語なんて・・・!!」 「いい加減認めろ。ここはギリシャだし、現にお前はギリシャ語でしゃべってるんだよ」 「・・・ッ、そんな、そんなのッ・・・!!!」 ギリッ、と拳を握りしめる。真っ白になるほど、キツく。 少女の顔面は蒼白だった。 場所はわかったが、どうやってこんなところに来たのかわからない。話せないはずの言葉を話している。 自分で自分が、わからない。 けれど。 震えだしそうな身体を叱咤し、熱くなる目頭は無視をして、毅然と顔を上げる。 わからない。 けれど。 「―――でも私は帰るの!!何度も云うけど明日からテストなの!!テスト欠席したら内申悪くなるし、追試になったら満点取っても8割しか加味してくれないんだから!!!」 そうだ、帰らなければならない。 これだけは、確かなことだから。 誰が何と云おうと帰らなければならないのだ。 だって、明日はテストなのだから。 「おいおい・・・見上げた根性だな?まだテストの心配かよ?」 「わかってくれなくてもいい、でも私は帰る!!!」 「どの道明日には間に合わんぞ」 「いいの!!ここで何もしないよりはずっとましよ!!!」 「パスポートは?」 「ッ!!」 云われ、そんなものは持っていないことに気付く。 少女の反応を見て察したデスマスクは、意地悪く云った。 「最悪不法入国で捕まるんじゃねぇ?そしたらマジでテストどころじゃなくなるなぁ」 「・・・ッ!!!」 「デスマスク」 「・・・へいへい」 諌めたのは教皇だった。呼ばれたデスマスクは、軽く肩を竦めて引き下がる。 もう殆ど少女は泣き顔だった。涙こそ流していないが、もう少し何かを云われたらぽろぽろと零れだしそうなのは一目瞭然だ。 握り締めた拳だけで、最後の決壊を留めているにすぎなかった。 「シャカ」 何か考えるように黙って少女を観察していた教皇が、ふいにシャカを呼ぶ。 無言で一連のやりとりを眺めていたシャカが、一歩前に出て軽く頭を下げる。 「はい」 「送ってやるがよい。お前の能力なら、日本まですぐだろう」 「・・・正気ですか」 思わず問うた。それはシャカだけではない、その場にいた誰もが問いたかったに違いない。 本当ならば問答無用で始末しなければならない、あってはならない『侵入者』を、教皇は黙って見逃し、あまつ家まで送れと、つまりはそういうことを云っているのだ。 しかし教皇は事も無げに頷いた。 「無論だ。見たところ小宇宙もほぼ持たぬただの少女だ。このまま帰したところで害はなかろう」 「・・・あなたがそうおっしゃるのなら」 教皇が決めたことならば、一介の聖闘士が口を出せるはずもない。 今一度頭を下げると、シャカは釈然としない気持ちのまま少女の前まで歩いて行った。 いまいち状況を理解しきれなかったのか、少女は不安げに教皇と近付いてきたシャカを交互に見ていたが、焦ったように口を開いた。 「か、帰れるの?」 「私が送るのだ。感謝するがよい」 「ありがとうっ!!」 少女は、泣きだしそうには変わりないが、先ほどまでのように絶望した表情ではなく、嬉しそうな笑顔を見せた。 うっかりしていたが、確かに少女の顔の造形は非常によく出来ているのだ。いわゆる美少女である。 そんな少女の笑顔を正面から受けたシャカは、目を開いていなくてよかったと心底思う。後ろから見ていたであろう連中の表情を想像して、シャカは嘆息した。馬鹿らしい。 「・・・しかしここからでは・・・」 テレポーテーションは出来ない、と云いかけて、はたと気付く。 聖域を包み込む女神の小宇宙に変化があった。 何故かはわからない。 が。 今なら、この場からでもテレポーテーションが行える。 本当に何故かはわからないが、シャカは確信していた。神話の時代から続く不可能が、今、確実に可能な状態になっているのだ。 「教皇」 「なんだ」 「お気付きですか」 「・・・うむ」 問いながら、愚問だとシャカは思った。この変化に気付いたからこそ、教皇は自分に彼女を送ることを命じたのだ。 相変わらず食えぬ人だと思いながら、シャカは軽く頭を下げた。 「・・・では」 「な、何?」 「娘、こちらへ」 「、わ!?」 突っ立ったままでいる少女の腕を掴み、引き寄せる。恐ろしく細い腕で、軽い身体だった。 そしてシャカがテレポーテーションのために小宇宙を高めると、2人の周囲は青いような黄色いような、はたまた赤いような淡い複雑な光に包まれた。 またもやぽかんとした少女だったが、ハッとして教皇を振り返る。 「えっと、きょ、教皇、さんっ?」 「・・・なんだ」 教皇さんとは新しい。 ぼんやりとそんなどうでもいいことを思いながら、答えて。 「ありがとう!」 眩しい笑顔を零し、少女はシャカとともに淡い光の中に消えた。 -------------------- 20100321 |