聖闘士といえども人間である。故に、三大欲求に逆らえないというのもわからないでもない。
しかしやり方ならいくらでもあるはずなのだ。無理矢理なんてことは誰が許しても女神が許されるはずがない。
カルディアが通りかかったのは偶然だった。
滅多に聖域から出ることのない彼だったが、この日の任務の帰りにふらりと街に立ち寄ったのは気まぐれで、更に云うならちらりと裏路地に目をやったのは、軽い好奇心だった。






スカーレット・ウィザード





は困っていた。
ガラの悪い連中に目を付けられたからではない。ただでさえ遅刻気味だった今後の予定が、このお陰でさらに遅れることになりそうだから、困っていた。
要は、目の前の出来事には上の空だった。
「姉ちゃん、えらく綺麗な格好してるな?」
「これから彼氏とデートかい?」
彼らの目には、が何も云えずに怯えて無抵抗で、か弱い様に見えたらしい。を見る目は下品そのもので、これからどう楽しんでやろうかとばかりに厭らしい笑みを浮かべている。
しかしはそれどころではない。
今日は、今日だけは遅刻なんてしたくなかったのだ。
何故ならいつもの教会の仕事ではなく、今日はとある場所に行かなければならなかった。
だから気合いを入れてめかし込んで、ついでにお口に合うかしらとか食べ物とかって普通に召されるのかしらとか考えながらスコーンを大量製作していたらまんまと遅刻ギリギリの時間になっていた。ここは自業自得だ。
しかし、まさかこんなことになるなんて。
ただでさえ小走りで進んでいたのに、こんなことになっては今からすべての道程でダッシュしたところで間に合いそうにない。
なんて言い訳しよう。そもそも言い訳なんてさせてくれるだろうか。いやきっと慈悲深いはずだから、笑って許してくれたりしないだろうか。
の心が全く違うところを心配しているとは知らないチンピラ――というには些か若い気もするが――は、4人が壁際にを取り囲むようにしてじわりと近付いていた。
折角捕まえた獲物、しかもこんな上玉を逃がす手はない。抵抗らしい抵抗も、悲鳴すらも上げないところを見るとさっさと諦めているのだろう。多少抵抗してくれたほうが楽しみがあるのは否めないが、まぁ無抵抗は無抵抗でじっくりと楽しめる。
「彼氏より、俺たちを楽しませてくれよ」
「…………」
は俯いて青い顔をしたまま何も云わない。また残念なことに男たちは、怯えて声も出ないのだと勘違いしている。単に彼女は遅刻の言い訳についてうまいことがないかと必死に考えていただけなのだが、それが男たちに伝わるはずもなく。
本気でどうしよう、と半ば泣きそうになっていたとき、男の一人がまた厭らしい笑みを浮かべながら、の手を掴んだ。
完全に意識を遅刻の言い訳に向けていたは驚いて、手に持っていたバスケットを落としてしまった。
中に入っていたのは勿論スコーンである。
ただのスコーンではない。
あの方に食べてもらおうと思っていた、スコーンだ。
「な、何てことすんのよッ!!」
今まで全く反応を示さなかったの突然の激昂に、男たちは一瞬怯んだようだったが、素早く顔を見合わせるとすぐににやにやと笑い始めた。ろくでもないことを考えているのがよくわかる顔だ。
一人が落ちたバスケットをひょいと拾い、云う。
「これが大事なのか?」
「じゃあ、交換条件としようぜ」
曰く、返してやるから、俺たちと寝ろ。
こちらが絶対に断れないと知った上で突きつけているくせに、何が交換か。だいたい、こちらが明らかに損するだけではないか。
思いきり舌を出してやりたい気持ちを無理矢理押さえつけ、はリーダー格の男を睨み付けた。
遅刻確実となった今、お詫びの品を兼ねるであろうスコーンは返してもらわなければ困るが、だからといって彼らの慰みものになるのは死んでも嫌だ。
スコーンを返してもらい、自分は無傷でこの場をあとにする方法は―――絶望的だった。
さっきまでは遅刻のことが頭から離れず気付かなかったが、どうやらこの男たちは身体を鍛えているようなのだ。それも、その辺りにいる格闘家とは段違いだった。何が違うのかと云われると困るのだが、とにかく何かが違う気がする。
対する自分は、自慢じゃないが貧弱に見えるほどほっそりした四肢、動きにくい服装、取られた人(物?)質。
不利を通り越している。まるでお話にならない差だ。
そんなことを考えているうちにも、男たちはあの厭らしい笑みを浮かべながら近付いてくる。は元から壁際に詰め寄られていたのでそれ以上後退出来ず、どうすることも出来ない。
嫌な汗が背中を伝う。
一番近くにいた男が、舌舐めずりをしながらゆっくりと手を伸ばす。
絶体絶命だ。
手が、に触れそうになる。
反射的に、思いきり目をつぶる。
「………ッ!!……」
しかし、すぐ傍まで迫っていた手が彼女を捉えることはなかった。
おかしいと思い、そろり、と薄目を開ける。やはり男は目の前にいる。が、ぴたりと動きを止めていた。
その表情は何か恐ろしいものを見たように強張り、真っ青だった。見れば周りの男も似たような表情で固まっている。
「な、何が―――…」
キョロキョロと辺りを見回す。何かがあるに違いないが、それが自分にも脅威だったら最悪だ。 すると。

「恥を知れ」

連れ込まれていた路地裏に、ちか、と太陽の光が差した。思わず目を細めると、どうやら逆光になってよく見えないが誰かが立っているようだ。
太陽の光のせいでなんだかきらきらしていて、天使のようだ、とぼんやりは考える。
声はまだ続いた。
「端くれと云えど誇り高き聖闘士が、こんな場所で女を囲んで何をしている」
静かでありながら、その声には人を威圧する力を持っていた。
男たちは完全に顔色を無くして畏縮しているが、は違った。
「何をしていると訊いている」
怖くなんてなかった。むしろ、心が救われるような暖かささえ感じられた。
男たちを糾弾する声は厳しい。先ほどまでの威勢も笑みもすべて引っ込ませ、男たちは息も忘れたように立ち尽くしていた。いまいち状況についていけないは、ただ呆然とするばかりだ。
誰も何も云わなかった時間は、実際には数秒だったが、その場にいた彼らには何時間にも感じられた。まるで蠍に針を突きつけられたまま何も出来ずにいるような、そんな感覚が襲う。
先に口を開いたのは、意外にも天使――とが勝手に思っている――だった。
「処罰は追って下す。この場は消えろ」
聞こえているのかいないのか、はたまた聞こえていても動けないのか。とにかく、男たちは固まったままだった。
すると、苛ついたような舌打ちのあと、天使は告げた。
「去ね。」
吐き捨てるように、たった一言。
その一言に何かを感じたらしい男たちは、弾かれたように振り返り、不様な悲鳴を上げて転がるように逃げて行った。
後に残ったのは、逃げる男たちを呆然と見送るしか出来なかったと、天使だけだった。
しばらく何を云えばいいのかわからず固まっていただったが、ハッとお礼をしなければと思い勢いよく頭を下げる。
「た、助けてくださってありがとうございました!」
バスケットを落とした以外は被害はなかったわけだが、天使が来なければ自分はきっとされるがままになっていただろう。鍛えられた男の腕に、いくら抵抗したところで貧弱な女の腕が敵うはずがないのだ。
しかし天使は些か呆れたように云う。
「そんな格好でこんなとこを歩いてりゃ、狙ってくれって云ってるようなもんだぞ」
云われて、まぁ確かに、と納得してしまった。
襲われる前、早足になりながらちらりと周りを観察していたが、どうにも治安が悪そうな気はしていた。どのみち急いでいたし、さっさと通ってしまおうと思っていた矢先に、先ほどの男たちに声をかけられたのだった。
「女一人でこんなとこ歩くんじゃねぇよ」
「……気を付けます」
おや、と思う。この天使は口がよろしくないらしい。
その天使はバスケットを拾ってくれたため、今は天使の顔をまともに見ることが出来た。
逆光で見えなかったときも思ったが、ちゃんと見ても、やはり天使のようだと思った。
太陽のような金の髪、切れ長の鋭い眼。色白の肌は遠目にも綺麗だ。
そして、その雰囲気が。圧倒的で、きらきらしていて、あんまりにも美しくて、知らずにため息が溢れそうになる。
バスケットを受け取りながら、はこっそり思う。神様は不公平だ。何故女ではなく男にこんな美しさを与えたのだろう。この10分の1でも、自分に与えてくれたらいいのに。
なんて考えていることは悟られないよう、はそういえば、とバスケットを開けた。一度落としたバスケットを拾った男が、天使が現れたときにも更に落としてくれていたし、結構派手に落としたので、中身が心配だったのだ。
開けてみると、案の定だった。
「あーあ…」
いつも以上にいい出来だったのに、パッとみただけでも4つが微妙な形になっていた。数は減るが、献上するときには取り除かなくてはならないだろう。
捨てるのは勿体無いが、お腹が空いているわけでもないので食べる気にもなれない。
「あ、そうだ。スコーン好きですか?スコーン」
「は?」
「スコーンですよスコーン。ちょっと形は悪くなっちゃいましたけど、味は保証しますよ」
「……なんでスコーンなんか持ち歩いてんだ」
「いや諸事情がありまして」
「そんなんだから襲われんだよ。多分、あいつらも世間知らずのお嬢様がほっつき歩いてるくらいに思ったんだろうぜ」
「お嬢様とか!あ、はいとりあえずこれあげます」
「……どうでもいいが、もうこんなとこほいほい来るなよ。次また助けが来るとは限らんからな」
「そうですよね…」
危険な臭いを感じつつもここを通ったのは、この道が一番の近道だったからだ。急いでいないときは、絶対に通らないだろう。
近道。
そういえば、自分は一応ものすごく急いでいたはずだったが、今何時だろう。
………。
……………。
―――やばい……。
ペンダント型の小型の時計に目をやり、一気に顔色が青ざめた。大遅刻だ。
「あの、本当にありがとうございました!」
「あ、おい!」
「スコーン食べてくださいねっ!では私は急ぐのでこれで!」
と半ば云い捨て、は走り出した。呼び止めようとした天使が何も云えないくらいの好ダッシュだった。
天使は伸ばしたがやり場のなくなった手を複雑そうに眺めたあと、やがてゆっくり降ろし、もう片方の手に半ば無理矢理持たされたスコーンを見た。まさか助けた礼がスコーンとは、斬新すぎる。
すでに背中も見えなくったが、が消えたほうを見、彼は、おかしそうに唇を歪めた。

そんな、ファーストコンタクト。










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蠍座の男は、とにかく格好いいと思うわけです!