たった一つの恋の行方




暗くどんよりとした空。今にも泣き出しそうな天気に、はそっと息をつく。
まるで今の自分の心境を表したかのようだった。事実は、泣けるものなら声を上げて泣きたい気分だったのだ。
しかしそうしないのは、プライドと、そうしたところで意味がないとわかっている諦めの心があるからだ。
よくもまぁとことん似た者同士になったものだと自嘲する。昔の自分は今や見る影もない。ここにいるのは、恋人に影響されて自分の殻を破った女だった。
は家の近くの公園にいた。普段は子供たちの喧騒の溢れるこの公園も、こんな天気では閑散としている。人といえば、少し離れたベンチで老夫婦がのんびりしているくらいだ。
真っ赤なマフラーに真っ黒のコート、真っ白なスカートで礼儀正しくベンチに座るは、公園には似つかわしくなかった。どちらかというと、高級なホテルのロビーのソファが似合う。
けれど、その表情は冴えない。まさに沈んでいるという表情だ。
本来ならば、ここには一人でいる予定ではなかった。
彼が来るはずだった。
しかし今、彼はいない。そして今日、来ることもない。
仕方がないとはいえ、やはり寂しかった。
だって今日は特別なのだ。
今日会いたかったのだ。
それなのに、そんな願いは叶わない。神様は意地悪だ、とは思う。
実家から地元の高校に通う彼は普通の高校生よりはるかに忙しい。選択した進路のせいでもあるが、彼の進学先は全国でも有数の医学部への進学率が高い。つまるところ、非情に頭がいい。逆に、勉強しなければたちまち置いていかれてしまう学校なのだ。
しかしそんなことはならないよう学校側もそれなりの措置をとっている。休日に行われる課外授業が最たるものだ。
毎週行われる訳ではないが、運悪く、今日はその日に当たってしまったというわけだった。
思わず溜め息がでる。困ったものだ。
彼が武蔵森を出ると知ったときから、離ればなれになることはわかっていた。学校に行っても、この公園に来ても、会いたいときに会えなくなることもわかっていた。
それでもやはり、つらい。
泣き出しそうになるのを堪え、大きく深呼吸する。
冷たい空気が肺を刺すようで、少しだけすっきりする。
すると、ふと、視界の端に何かが動いた。
何気なく視線を這わせると、意外な人物がそこにいた。
「ちわっす、先輩」
「藤代くん」
コンビニの袋を掲げて笑う少年は、にとっては馴染んだ顔だった。
武蔵森学園では彼を知らない人はいない。
そしてが関わりが深かったサッカー部のエースストライカーなのだから、親しくなるのは必然的だった。
「どしたんすか、こんなとこで。寒くないの?」
「うーん、ちょっとね」
苦笑いすると、ぴんと気付いたように意地悪く笑った。
「三上先輩でしょ。なーんだ、やっぱり仲良くやってるんすねー!」
憎いねぇと笑う藤代に、は曖昧に笑った。なんと答えるべきか迷ったのだ。
「で、待ち合わせですか?なんだよ三上先輩、こっちくるなら連絡すればいいのに」
なんとも可愛らしい意見に苦笑した。藤代らしいと思う。
だからこそ迷った。この子は優しい。優しいから、きっと事情を話せば怒るだろう。
他でもない自分のために。
それはの望むところではない。
本当に仕方がないことだから。
学生であり、学校に通う義務がある以上、これは仕方がないのだ。
「あ、じゃあ俺、三上先輩来るまでいていいっすか?今丁度温かいの買ったばっかりだし。先輩にあげますよ!」
藤代の優しさは嬉しかった。しかし、それに素直に甘えてしまうと、藤代は夕飯どころか門限にも間に合わなくなるだろう。
それはまずい。
「はい、先輩。ほんとはタクの分だったけど、あげちゃいます」
「笠井くん、怒るんじゃない?」
「へーきっすよ!だってタク優しいもん」
はい、と温かいコーンポタージュを受け取りながら、藤代のためにベンチを少しずれた。空いたところに無造作に腰を下ろし、早速自分もコーンポタージュを取り出した。
じんわりと、缶から温かさが伝わってくる。指先がじんじんと温かくなってきた。
「それにしても今日寒いっすよねー。午前中の練習、最初は身体ぜんっぜん動かなかった!」
「もう高等部のほうに出てるんだっけ?」
「はい。今年から高等部っす。やっぱ中学とはレベル違いますよねー」
「でも、藤代くんならすぐレギュラー取れるでしょ?」
「あったり前っす!ぜってー夏前にレギュラー取りますよ!
」 そしたら試合観に来てくださいね、と意気込む藤代に、勿論、と微笑む。それだけで俄然やる気が出るというのだから現金なものだ。
ところでは、いよいよタイミングを図りかねていた。
このまま付き合わせるのは申し訳ないし、かといってすげなく追い返すのも気が引ける。
考えあぐねていると、向こうから話題がやってきた。
「三上先輩、いつ頃来るんすか?先輩、もう随分待ってますよね?」
「え?う、うん…。あのね、藤代くん」
「なんすか?」
キョトンと目を瞬かせる藤代に、は慎重に続けた。
「亮くん、来ないのよ」
「え?」
「今日、課外授業になっちゃったんだって」
「……は?」
「だからね、来られないの」
繰り返しながら、はらはらした。いつもの藤代なら、このあたりで信じらんねぇ!とでも騒ぎ出すからである。
けれど、それは杞憂に終わった。
ゆっくりと話すを、藤代は黙ってみつめていた。逆にそれが不安にもなったが、何もないに越したことはない、と云い聞かせる。
「同じ関東にいても、離れてるからね。思い通りにならないなんていつものことだし、私平気よ」
嘘ではなかった。
諦めは確かにあるが、それよりも理解している。これは仕方がないことだと。
藤代の目はじっとを捉えている。
が口を閉じると、ゆっくりと瞬いた。
「仕方ないって思うの?」
「え?」
「それ、仕方ないこと?」
藤代らしからぬ声音と台詞には困惑した。
咄嗟に言葉が出てこなかった。
仕方がないと云い聞かせていながら、結局は納得していない証拠だ。
「なんで先輩が我慢するんすか?いっつも先輩ばっかり」
「ふ、藤代くん…」
「そうゆうの、三上先輩ずるいっすよ。先輩が優しいから。先輩ばっかり損してる」
いつもと様子の違う藤代に、は狼狽えるしかなかった。
三上と藤代は会えば子供のような云い合いばかりしているが、仲は極めて良いと云ってよかったはずだ。
陰険、エロ目、横暴!と三上相手に喚いているのも見たことがある。
だから三上を悪く云うのは、藤代にとっては愛情表現とも云えるのだ。
なのに、今の藤代は違った。
純粋に怒っているように見えた。
どうしたらいいのか困っていると、藤代の手がの手を握った。

「だから俺にすればよかったのに」

時間が止まったような気がした。
藤代の目を見つめる。冗談を云っているふうでもなかった。
「俺なら先輩を哀しませるようなこと絶対しない」
「………」
「俺なら絶対先輩を幸せにする」
「………、」
「俺にしなよ」
握る手に、いっそう力がこもる。
痛かった。
けれどそれ以上に、心が、痛くて堪らなかった。
「藤代くん……」
それでも、頷くわけにはいかない。
斜めに向き合った肩に額を押し付けた藤代は泣いているように思えた。
不思議と心が落ち着いてくる。
きっと彼なら自分を幸せにしてくれるだろう。冷たくもしないし、いつでも優しく支えてくれるに違いない。
けれど。
「藤代くん」
「………」
「―――はい、って云ったら、あなた嬉しい?」
慌てて顔を上げる。思った通り、泣きそうな顔だった。先ほどまでの自分のようだと思った。
「そんなのっ」
そして絶句した。
は穏やかに微笑んでいた。
「私が、亮くんよりあなたを選んでも、嬉しくないでしょう?」
きっとそうだと、そうである自信がにはあった。
藤代が好きなのは、無条件に自分ではない。
三上亮に恋した自分なのだ。
言葉を失くした藤代はまじまじとを見た。言葉の意味を問うような目だったが、は微笑むだけだった。
やがて藤代は深い溜め息をつき、手を離してベンチにだらしなく座った。
力無く空を仰ぎ、呟くように云った。
「ずるいないぁ」
「そうかしら?」
「だって、そんなこと云われたらこれ以上押せないじゃん」
「する気もないくせに?」
先輩、ほんと三上先輩に似てきましたよね」
「類は友を呼ぶっていうくらいですからね」
「はは、じゃー仕方ないか」
「そうよ、仕方ないの」
何気なく云えば、なんとも云いがたい複雑な目をされたが、は知らない振りをした。
しばらくを見つめていた藤代は、困ったように笑って云った。
「俺、先輩だから好きなんすよ」
「………」
「別に、三上先輩を好きな先輩を好きになったわけじゃないっすから」
「……うん」
「それは、知ってて」
そこに、太陽みたいな笑顔はなかった。
夕焼けの寂寥感にも似た、それでいてとてもきれいな笑顔だった。
わけもなくは目の奥に涙を感じたが、今は泣いてはいけないと、無理矢理に微笑んだ。
「じゃあ、俺帰りますね。いい加減、タクが怒り始めそうだし」
「うん。…藤代くん」
「はい?」
「ありがとう」
立ち上がり、公園の出口へと向かった藤代は、ついに一度も振り向かずに帰路についた。
残ったは、どうしようもない切なさに唇を咬んだ。
どうしていつもこうなのだろう。気付いたときには何もかも手遅れになっていて何も出来ないでいる。
どうして、どうして。

「―――

はっと顔を上げる。思わず声のほうを向けば。
「―――亮くん…」
会いたくて堪らなかった人が、息を切らして汗だくで、そこにいた。
肩で大きく息をしながら、大股に近付いてくる。
「悪い、待たせた」
「…どうして……」
「ばっくれてきた」
「ばっ……!!?」
「おう。あとで課題提出すりゃへーきだろ」
「ば、馬鹿じゃないの!?なんでそんなこと……!」
「うるせぇな、会いたかったんだよ」
「、……え…」
呆気にとられて言葉を失った。
今彼は、なんと云ったか?
「会いたかったんだよ、馬鹿野郎」
曲がりなりにも彼女に対してはあんまりな言い種だが、には伝わってきた。
彼はもとから素直じゃない。
それを考えれば、破格の殺し文句だ。
「……私も…」
そっぽを向いて、夕日に誤魔化しながら顔をわずかに赤く染めた三上に、は笑った。
「私も、会いたかったの」

きっとこれからも後悔したり諦めたり、理解したふりをすると思う。だってそうしないとやりきれないことがたくさんあるのだ。
だから、私は。

「亮くん」
「あん?」

お誕生日、おめでとう。










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1月22日
三上亮くん、ハッピーバースデー!