ある日、大学に行こうといつもの時間に玄関を開けると、彼氏が立っていた。

「や、久し振りだねぇ!」

なんであんたがここにいる。






アンチ遠距離恋愛





本来ならば韓国の空の下でボールを追いかけているはずの人物が玄関の前に立っていたら、そりゃあ誰だって驚くはずだ。ここは日本。しかも、彼の従兄弟の家のある東京ではなく、私が大学進学を期に一人暮らしを始めた千葉だった。
確かに以前も彼がこの家を訪れたことはあったけれど、韓国から気軽に遊びに来られる距離ではないはずだ。
そうかこれは幻だ。きっと勉強のしすぎで疲れているんだ。そうに違いない。大学は行かないで、今日は大人しく家で休もう。
というわけで、私は静かに扉を閉め
「わ、酷い!彼氏を締め出す気!?」
―――ようとして失敗した。
たちの悪いセールスよろしく、なんと目の前の訪問者は、商売道具であるその脚を閉まろうとした扉に突っ込んでストッパーにしたのだ。
これには私が声にならない悲鳴を上げてしまった。
「ば、馬鹿!何やってんの!?」
「だってがしめようとするからー」
「だからって商売道具使うな!!」
「えー?」
だってとかゆうな!23歳にもなって恥ずかしくないのか?
いつものことながら、こいつとの会話は疲れる。同じ言語使ってるのに異世界人と会話している気分になるのだ。
渋々扉を開けて、家の中に招き入れる。一応顔の知れている有名人なのだから、外で立ち話なんてさせられない。
ああ、今日は大学行けないなぁ。
「やー、日本の夏って、いつきてもじめじめしてるよね!」
「文句云うなら来なきゃいいのに」
「ひどい!遥々やってきた彼氏になんてことを!」
頼んでないよ。
なんて云った日にはこの男は年甲斐もなく泣き真似をしてしばらくここに滞在するのだろう。我ながら厄介な彼氏だと思う。出会った頃はこんなんじゃなかったのになぁ。
仕方がないので冷えた麦茶を出しながら、どうしたの、と訊ねる。
「うん、あのね!」
私は知っていた。
彼がこんな笑顔で何かを告げるとき、それは大抵ろくでもないことなのだ。

「一緒にスペイン行こう!」

ほらきたよ。馬鹿じゃないかこの男。
「行かないよ」
「即答?ちょっとは考えてよ…」
「あのねぇ」
往々にしてサッカー選手というのは常識に欠けていると思う。日本サッカー界の貴公子なんて呼ばれている幼なじみは別として、知り合いのサッカー選手を思い浮かべるとあまりの非常識っぷりにうんざりしてしまうのはなぜだろう。おー人事。
ともかく、彼は忘れているのかわかっていて云っているのかは知らないが、私は大学生で、しかも4年生。だからこそ卒論のために、夏休みだというのに毎日大学に通っているのだ。ついでに来年からの就職先も内定をもらっている。
そんな私がスペイン旅行なんて行っていられると思っているのだろうか。研究放っていけるはずがないというのに。
「旅行なら、オフ狙って冬に沖縄に行ったじゃない。今度は海外って、日本の学生さんはお金がないのよ?」
「え?」
「え?」
呆れたように云えば、彼はきょとんと目を瞬かせた。
「僕、旅行だなんて云ったっけ?」
「・・・旅行じゃないの?」
「うん」
じゃあなんなんだ。
と、今更気付いたけど、今って一応シーズン中じゃないのか?韓国リーグ予定がどうなってるのかはよく知らないけど、日本は今シーズン中。といってもそろそろ折り返しの時期だけど。
疑問を込めて彼を見る。すると、にっこりと笑って云った。
「僕ね、スペインのチームにスカウトされて、移籍するの決めたんだ」
まぁ、スカウト事態はずっと前にされてたんだけどね。と笑う。
言葉が出てこなかった。
スペイン?移籍?
じゃあ、行こうっていうのは、旅行じゃなくて。

、僕とスペインに来てよ」

そういう意味?
頭が真っ白になった。それから、スペインとか移籍とかせめて一言くらい相談してよとか英士知ってたなら教えろよとかスペインて日本からどれくらいかかるんだっけとか、ぐるぐる考えた。
なんだかいきなりすぎて泣きそうだった。
は遠距離でも構わないって云ってたけどさ、やっぱり僕は傍にいたいんだよね」
彼の手が私の頬に触れる。本当に泣いていると気付いたのは、彼に涙を拭われたからだ。
「今までずっと我慢してた。出会った頃は中学生だったし、高校生も未成年だ。それからは大学に入ったし、僕はプロになって前よりサッカー漬けの毎日。お互いの国でやることがあったから、どうしても誘えなかった。でも」
彼がこんなに話すとき、たいていいつも緊張している。ポーカーフェイスだけど、意外と怖がりなことを私は知っていた。
大きな掌が、私の頬を包み込む。優しくて、暖かい。大好きな掌。
が卒業するまで待つから」
笑う。

「卒業したら、一番に僕のところに来てよ」

冬に会ったとき、私は確かに遠距離恋愛でも構わない、満足している、不満なんてないのだと彼に云った。それは嘘じゃない。
けれど、全部本心というわけでもなかった。
いつでもすぐに会えるわけではないし、一緒にいられる時間だってすごく短い。
彼がその時間をとても大切にしてくれているのはわかっているけれど、寂しい、というのは変わらない。
強がりだった。
彼が優しくて真っ直ぐだから、負担になりたくなくて、我が侭だと嫌われたくなくて、強がってあんなことを云った。
でも。
傍にいたいと。
待ってくれると。
そう云ってくれるのならば。
「―――潤・・・」
名前を呼べば、何、と首を傾げる。
「本当に、待っててくれる?」
「もちろん。それとも、信用出来ない?」
悪戯っぽく笑う彼に、急いで首を振る。
この時私には、内定先にどう断りを入れるか、学校にどう説明しようか、そんなことばかり考えていた。
私の心は、決まっていた。
「絶対行く」
まだ卒業まで半年近くはある。スペイン語は大学で勉強していたのである程度は話せるだろうから、卒業までに卒論と平行して勉強しよう。

「卒業したら飛んでくから、スペインで待ってて」

はっきりと云えば、潤は嬉しそうに笑って私を抱き締めた。










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特にオチはない(ちょ)